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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.05.12
今日の言葉

無事とは?

御朱印を書くのに、お地蔵さまの絵を描いて、その上には無事と書いていました。

多くの方がこの御朱印をお求めになったのは、お地蔵さまの絵もさることながら、無事という言葉もよかったのだと思いました。

禅語では「無事是れ貴人」というのも人気がありました。

多くの方は「無事でありますように」という願いをお持ちなのだと察します。

朝比奈宗源老師や足立大進老師は、小さな紙に無事と書いて、それをお守りとして信者さんたちに差し上げておられたことを思います。

遠くに出かけるときなどには、その無事と書いたお守りを授けていました。

無事でありますようにとお祈りする気持ちであります。

「無事」という言葉を『広辞苑』で調べてみると、

取り立てて言うほどの変わったことのないこと。

事変のないこと。危険・災害・大過などが起こらない状態。平穏。
ここに「航海の無事を祈る」とか「無事終了した」という用例があります。

それから
つつがないこと。健康なこと。
手紙に「無事にお過ごしと存じます」と書いたりします。

自然のままで何も人為を加えないこと。

ひまなこと。なすべき事がないこと。

「無事に苦しむ」という用例があります。

だいたいこのような意味で使われています。

ただ禅の語録では意味がもっと深まります。

『禅学大辞典』で調べてみると

問題がない。事が起らない。用事がない。

寂静無為の境涯。本来の自己に立ち還った安らかさ。

この意味として用例に、『臨済録』から「若し能く是の如く見得せば、秖だ是れ一生無事の人」という言葉が紹介されています。

それから
「無事界裡」となると、

これは「求むべき佛もなく、行ずべき道もないと考える、あやまったさとりの境界。」と解説されています。

『禅語辞典』で調べてみますと

無事は「なすベきことは何もない。また、人為の入りこみようもない平穏静謐な世界のありよう」と解説されています。

しかし、「無事の会」となると、

「仏法は修むべきなく証すべきなし(馬祖や臨済の常套語)と思いこんで、何もしなくてよいと収まりかえっていること。

宋の大慧はこれを「無事甲裏に坐在す」(無事という楼閣の中でアグラをかく)と呼んだ」と書かれています。

「無事禅」とは「なすべきことは何もないと収まりかえった「平常無事」の教条禪。」と説かれています。

無事禅というと、いい意味では説かれていないのです。

『禅学大辞典』にも「無事禅」とは「悟りを求めることなく、また省悟のない修業をする禅。看話禅の立場から、黙照禅を称して無事禅、死灰枯木禅などと蔑称した」と解説されています。

「無事」は「寂静無為の境涯。本来の自己に立ち還った安らかさ」であり、「なすベきことは何もない。また、人為の入りこみようもない平穏静謐な世界のありよう」なのですが、「無事禅」なると悪い意味に使われるのです。

これが面倒なところです。

『臨済録』の中に、

「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」(50~51)

という言葉があります。

『臨済録』にある言葉は岩波文庫『臨済録』入矢義高先生の現代語訳を引用しています。

これこそまさに「寂静無為の境涯。本来の自己に立ち還った安らかさ」であり、「なすベきことは何もない。また、人為の入りこみようもない平穏静謐な世界のありよう」なのです。

また『臨済録』には「このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。」と説かれています、

この「外に向って求めまわる心を断ち切ることができた」状態が、臨済禅師の説かれる「無事」なのです。

「君たち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。」

とも説かれています。

ここに「一生大安楽の人」と訳されているのは、原文が「無事の人」なのです。

はじめから何も求めることもなく安閑としているのを「無事」というのではありません。

これを誤解すると、ただありのままでいいのだと安住してしまうことになります。

そうなると「無事禅」と批判されるのです。

臨済禅師は、やはり道を求めるべきことをはっきりと説かれています。

「諸君、出家者はともかく修行が肝要である。わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す藥か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっペんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って、始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。」

「諸君、ぐずぐずと日を過ごしてはならない。わしも以前、まだ目が開けなかった時には、まっ暗闇であった。光陰をむだに過ごしてはいけないと思うと、気はあせり心は落ちつかず、諸方に駆けまわって道を求めた。のちにお蔭をこうむって、始めて今日君たちとこうして話し合えるようになった。諸君に忠告したい、決して衣食のために心を労するな。見よ!人生は過ぎ易く、善知識には遇い難い。善知識の出現は優曇華が咲くように稀なことだ。」

と説かれています。

「駆けまわって道を求めた」末の無事なのです。

無事は「体究練磨を重ねた末に、はたと悟った」境地なのです。

ここを誤解しては無事禅と批難されるのです。

「何もしなくてよいと収まりかえっていること」ではないのです。

臨済禅師はあるときに、「ひとくちの飯にありつき、衣のつくろいをして時を過ごすよりは、良師を訪ね歩いて教えを請うがよい。ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。」と修行者達に勧めているのもよく分かるのであります。

 
横田南嶺

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