文字からはじめる禅
新年度でありますので、いろいろの仕事もございます。
この四月から新たに禅文化研究所YouTubeで白隠禅師の毒語心経を解説しようと思って、その撮影も行いました。
研究所に行くと、『文字からはじめる禅』という書籍ができあがっていました。
こちらは今年度禅文化研究所が発行する書籍の大切なものであります。
この本には、「臨済宗黄檗宗 宗学概論」というサブタイトルがついています。
もともと、平成二十八年に、臨済禅師千百年白隠禅師二百年の大遠諱の記念事業で作成した本でありました。
私もそのときは、監修の一人として関わっていたのでした。
ただこの本は、一般に販売されるものではありませんでした。
もともとの『宗学概論』のまえがきには、当時の南禅寺派宗務総長の蓮沼亮直和尚が、
「本書は禅の本質を中心に、臨黄宗旨に関わる全てを網羅し、各章はそれぞれ専門の先生方によって分かりやすく解説され、宗門にいる私たちにとって須知すべき内容であり、指針の書として大変貴重な一冊です。今後本書が永く護持されていくことを願ってやみません。」
と書かれています。
巻末には「後序」として、野口善敬和尚が、
「「宗学概論」という題目を見て、「不立文字を説く禅宗で概論がなぜ必要なのか」という人がいるかも知れない。
もちろん「書硯筆墨を持するを許さず」という僧堂での修行においてはその通りかも知れない。
だが、この本の目的は、たとえ第二頭に落ちようとも、臨済宗や黄檗宗の僧侶として布教活動の場で活用できる最低限の知識を、住職や副住職の方々に纏まった形で提供することにある。」
と書いてくださっています。
禅を学ぶにはよいのでとても好評で、ひろく一般書籍として作り直したのでした。
今回は新たに、駒澤大学の小川隆先生や、花園大学の余新星先生もご執筆くださっています。
充実の内容となっています。
目次は
第一章 禅宗の文字の教えと実践
一、祖師のことばに学ぶ
二、禅宗の書物に学ぶ
三、禅僧が読誦する経典に学ぶ
四、僧堂(修行道場)の修行に学ぶ
第二章 今日に伝わる禅宗の歴史と思想
一、禅宗祖師の小伝集
二、中国における禅宗の歴史
三、日本における禅の歴史 ― 二十四流四十六伝・臨黄各派の歴史 ―
◇こらむ◇栄西がもたらした南宋仏教
四、禅宗の思想 ― 唐宋禅思想史と日本の禅
◇こらむ◇禅宗における釈尊
第三章 禅宗と関係の深い日本文化
一、日本の禅宗の葬祭と行事
1.寺院行事
2.檀徒行事
二、禅宗寺院のさまざまな仏像
◇こらむ◇禅文化における「伝統」…… 一休の像を通して考える
三、禅宗から創造された日本文化
臨済宗・黄檗宗15本山の開山に至る法系図
臨済宗・黄檗宗の本山
文字の学びを日常生活に活かす
となっています。
私は今回まえがきを担当しました。
本のオビには私のまえがきの言葉が書かれています。
「禅というのは、どういう教えなのか、どのように修行してゆくのか、文字で学べる限りのことを学んでおくことが必要です。
そうして学んだ上で、一度その文字を否定して、ひたすら坐禅して「」(自己とは何か究めてゆくこと)することが大切であります。」
と書いています。
そのあとに、まえがきで、
「その時期には、文字は却って不要となります。禅の修行には、文字を学んだ上で、文字を否定する時期が必要なのです。この時は実際に、禅の法灯を伝える老師に師事して、体究錬磨するのであります。
これこそが、「直指人心、見性成仏」と説かれているところです。文字を用いずに、直に人の心を指して、その心の本性を見届けて仏に成るのであります。これが、禅の最も大切な生命線であります。
禅の尊いところは、師から弟子へとこの実参実究の道が伝えられていることにこそあります。どんなに言葉を費やしても表わし得ない本性の素晴らしさに目覚めるのであります。
そのあとは、また再び多くの文字を用いて人々に教えを説いてゆく必要が出てきます。禅は、心の本性を見るだけではなく、その教えから多くの書物のみならず、様々な文化を発展させてきました。」
と書いています。
そんな禅の言葉、歴史、思想、文化などを一冊に網羅した書物なのであります。
本書の「第二章 今日に伝わる禅宗の歴史と思想」では、「中国における禅宗の歴史」を伊吹敦先生が、「日本における禅の歴史」を余新星先生が、そして、「禅宗の思想 ― 唐宋禅思想史と日本の禅」を、小川先生が新にご執筆くださっています。
小川先生は、唐代から宋代を通して禅の思想の流れを分かりやすく解説してくれています。
そして日本に今伝わっていて現に実践されている白隠禅師の教えや道元禅師の教えにまで丁寧に書いてくださっています。
有り難いことだと思って拝読していて、最後に書かれていた言葉にハッとさせられました。
「むすび」のところで、入矢義高先生の『増補 自己と超越―禅・人・ことば』からの引用されている言葉がありました。
「ここに一人、臨済とほぼ同時の夾山禅師(805-881)に、次のような提言がある。
道に横径なきは、立つ者皆危うし。(『祖堂集』巻七)
横路(岐路)のない大道を選んで行く者はみな危険であるという意味であるが、危険だというのは、求道者として自立することを妨げる何かかがそこに伏在しているという示唆である。
そのため、迷い路のない坦々たる一本道を進む者は目的地には到達しがたい。
それはなぜか。
その求道を達成することを阻むものは何なのか。
結論を先に言ってしまえば、それは平坦な大道を進むことそのことに他ならない。
大道を行けば迷う(道を見失う)ことはない。まさにそのことこそが「危い」のだ、というのである。」という言葉であります。
更に入矢先生の「荊棘が行く手を阻めば、刺されて血を流しながらでも、それをくぐり抜けなければならない。岐れ路にさしかかったら、どちらを進むかに先ず迷い、そして自らの判断と責任でどちらかを選ばねばならない。」
という言葉を引かれています。
そして最後に小川先生は、
「生きとし生ける者は、みな、もともと仏である。
それが、禅宗の大前提であった。
だが、それをどう捉えるかについては、禅宗内部にもいくつかの異なった考え方とそれに応じた複数の行があった。
そこに唯一の正解はない。
「悟り」は究極の終点でなく、迷いながらどこまでもつづいてゆく、永遠の運動なのであった。」
という言葉がございます。
入矢先生の言葉は、かつて何度も読んだはずなのですが、改めてこの本を手にして読んでみると、長い禅の歴史と伝統文化は、祖師たちが血を流しながらのくぐり抜けてこられたものだと実感させられます。
そして、今の私たちも現状に甘んじることなくどこまでも永遠の求道を続けなければならないと思ったのでした。
この一冊で長い禅の歴史と伝統、その苦悩の営みがよく分かります。
多くの方に手にとってもらいたい一冊です。
横田南嶺