三つの宝
「三宝」とは『広辞苑』にも
「三種の宝の意、衆生が帰依すべき三つの宝。仏・法(仏の説いた教え)・僧(仏に従う教団)の称。」
と解説されています。
「なむさん」という言葉もあります。
これは「驚いた時や失敗した時、また事の成功を祈る時に発する語。しまった。さあ大変だ」という意味です。
この「なむさん」も、「なむさんぽう」の略です。
岩波書店の『仏教辞典』には、詳しく説かれています。
「仏教において最も重要とされる仏教の教主である<仏(ぶつ)>(ブッダ)と、その教え<法(ほう)>(ダルマ)と、それを奉ずる人々の集団<僧(そう)>(サンガ)の三つを宝にたとえたもの。
このように仏・法・僧を三つに分けてとらえることを<別相三宝>というが、三者とも本質的には真如(しんにょ)に発するから一つであるととらえるのを<一体三宝>といい、仏像と経巻と出家の僧ととらえるのを<住持三宝>という。」
と説かれています。
そもそもは、二千五百年前の昔、お釈迦様が世にお生まれになって、菩提樹の下で悟りを開かれました。
これがブッダであり、仏であります。
悟った人であります。
そのお釈迦様が、悟りを開かれて後に、はじめは説法するのをためらわれたのですが、梵天の勧請によって説法する決意をなされました。
そしてサールナートに赴いてかつて修行した五人の仲間に説法をなされました。
ここで説かれた教えと、そして教えを学ぶ者たちが現れました。
三宝が成立したのです。
実際に世に出られたお釈迦様が仏であり、そのお釈迦様が説かれた四諦の教えなどが法であり、お釈迦様のもとで学ぶ集団を僧と言ったのであります。
これが実際に世に現れた三宝で現前三宝と申します。
それから『仏教辞典』にありましたように、「一体三宝」という教えもあります。
『仏教辞典』には、「同体三宝」として解説されています。
それは「<一体三宝>ともいう。
仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)の三宝を同体(一体)とみること。
仏・法・僧の三宝は意味上は区別されるが、いずれも本質的には真如に発するから一つであるという。
これに対して、仏・法・僧の三つに分けてとらえた三宝を<別相三宝><別体三宝>などという。」
と解説されています。
『禅学大辞典』には、
「同体三宝·同相三宝とも。
佛法僧の三宝はその名称はちがうが、その本体からみれば一体であるという三宝の見方。
すなわち三宝は同一の法性真如を三方面からみたもので、真理を体得しこれを説くものが佛であり、述べられた真理の教が法であり、この教を学び行ずるものが僧である。」
と解説されています。
修行道場でお唱えしている三帰依では、
自ら仏に帰依したてまつる「
仏とは悟れる者、人としひとの尊さなり
まさに願わくは衆生とともに
大いなる道を踏みしめて無上の心をおこさん
自ら法に帰依したてまつる
法とは理の道、おのれなきの尊さなり
まさに願わくは衆生とともに
深く教えの蔵に入りて智慧海のごとくならん
自ら僧に帰依したてまつる
僧とはつどいの力 隔て無きの尊さなり
まさに願わくは衆生とともに
よろずを統べ調えて障りなきものとならん
とお唱えしています。
ここに「仏とは悟れる者、人としひとの尊さなり」とありますように、仏とは悟った人であり、普遍的な人間性そのものを言っています。
この上ない真理そのものですから「帰依仏無上尊」とも申します。
それから「法とは理の道、おのれなきの尊さなり」とありますように、法こそは真理であります。
それは汚れや欲望を離れた尊さであります。
そこで「帰依法離欲尊」とお唱えしています。
そして、「僧とはつどいの力隔て無きの尊さなり」です。
和合することの尊さを「帰依僧和合尊」とお唱えします。
そこで更に、
自ら佛に帰依したてまつる
当に願わくは、衆生とともに
大道を体解して、無上心を発さん。
自ら法に帰依したてまつる
当に願わくは、衆生とともに
深く経蔵に入りて、智慧海の如くならん。
自ら僧に帰依したてまつる
当に願わくは、衆生とともに
大衆を統理して、一切無礙ならん。
とお唱えします。
そして
「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧
帰依仏無上尊 帰依法離欲尊 帰依僧和合尊
帰依仏竟帰依法竟帰依僧竟」とお唱えしているのです。
それから「住持三宝」というのがあります。
これは三宝が実際に世に住していることを言います。
具体的には、仏像が仏宝であります。
画に描かれた仏画でありますとか、彫刻された仏像であります。
それから経典が法であります。
巻物になったり折り本になっているのが法であります。
それから出家して法衣を着ている集団が僧であります。
実際に世に現れたお釈迦様とその説かれた真理と、お釈迦様のお弟子たちを言うのが「現前三宝」です。
仏とは悟りの本性、すなわち本来具わる清らかな心であり、法とはその真理の働き、僧とはその調和した在り方であるというのが「一体三宝」です。
そして仏像と経典と僧侶をいうのが、「住持三宝」となります。
仏に帰依するとは、歴史上の釈尊という一人の人物を拝むということにとどまりません。
むしろ、私たち一人ひとりの内にある尊い人間性、本来智慧と慈悲とを具えていることをよりどころとするのです。
法に帰依するとは、その尊い人間性に従って生きることです。
智慧と慈悲とを頼りとしていくのです。
僧に帰依するとは、共に学び共に歩む仲間を大切にすることです。
三宝に帰依して生きることは、今の時代においても大切なことであります。
横田南嶺