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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.04.07
今日の言葉

老師の七回忌

三月の末には、足立大進老師の七回忌の法要をお勤めしました。

私たち禅門の世界では、尊敬する方のお名前を直接呼ぶことを避ける習慣があります。

弟子の立場で、老師のことを足立大進老師とお呼びするのは失礼にあります。

老師には、「慈雲」という道号がありますので、慈雲老師とお呼びする場合もあります。

また老師は「栽松軒」という室号もお持ちでありました。

老師方はご自身のお部屋に名前を持っておられます。

それで、その部屋の名前、室号でお呼びするのが、禅門では最も正式なのであります。

今でも御皇室を「何々の宮様」とお呼びするのと同じであります。

老師に敬意を表して栽松老師とお呼びするのが本来であります。

老師は昭和七年のお生まれで、令和二年二月二十九日にお亡くなりになりました。
七回忌の法要には、大勢のお坊さんをお招きするので、彼岸も終わって気候もよい三月の末日を選びました。

老師は昭和七年大阪の歯医者の家にお生まれになりました。

幼い頃から体がお弱かった老師は、当時煙の都と呼ばれていた大阪のような所では育たないといわれ、父方の祖母の里に当たります兵庫県の田舎で、育てられることになったそうです。

老師がまだ四歳の時でした。

空気のよい田舎なら育つかもしれないというおやごころでもあったのでしょう。

田舎で幼稚園までを過ごし、七歳で小学校へ入る時に、もう大丈夫だろう、ということで、大阪へ帰りました。

ところがすぐに体調がすぐれなくなり、結局一学期だけ大阪の小学校へ通い、二学期からまた元の田舎へ戻られたようです。

老師にとって人生の転機となったのは、昭和二十年の春のことでした。

今度は大阪に帰り高槻の中学から当時の大阪医専へ入るコースを歩むつもりでいたそうです。

ところが二月十三日の夜から十四日にかけて、大阪大空襲がございました。

記録によると二百七十四機ものB29が三時間焼夷弾を落とし続け、大阪の中心部はほとんど全燃してしまったのです。

老師が中学を受けるための受験票が、この時家もろとも燃えてしまったのでした。

中学受験のために大阪へ帰る支度をしている老師に両親から「ヤケタカエルナ」という電報が来たそうです。

やむなく田舎の中学に入ったのでした。

ところがその中学校は隣の郡にあって、祖母の実家からは通学できません。

そこで遠縁の人を頼んで、その檀那寺へ下宿させていただくことになったのでした。    

やがていろんな事情があって、老師は、そのお寺の養子となられました。

老師は、もともと足立姓でしたが、このときに養子になられて姓が変わります。

またもう一度とあるお寺の養子になられていますので、二度も姓が変わっておられます。

大学は京都の花園大学にお入りになっています。

老師が円覚寺で修行しようと思われたのには、こんなことがありました。

大学四年の秋、寄宿舎の部屋でラジオのスイッチを入れると尾崎萼堂翁のお葬式の放送に出くわしたのでした。

尾崎萼堂翁とは、尾崎行雄のことで「憲政の神様」や「議会政治の父」と呼ばれ、世界連邦の運動などを熱心に提唱されていた方です。

老師も尾崎萼堂の思想に共鳴されていたこともあって、その放送を聞きつづけました。

このお葬式の導師が、当時の円覚寺派管長、朝比奈宗源老師だったのです。

禅宗のお葬式では、引導の香語を唱え一喝をくだします。

ラジオから聞こえてきた朝比奈老師の一喝に老師は魅せられて、ようし、円覚寺へ修行に行こうと決められたというのでした。

そして昭和三十年に円覚寺にお越しになって、朝比奈老師のもとで御修行になり昭和五十四年に朝比奈老師がお亡くなりになるまで二十四年間おそばにお仕えされたのでした。

昭和四十四年に、朝比奈老師が体調を崩されて、老師が師家代行として、僧堂の雲水の指導にも当たられていました。

まだ三十七歳の頃から、「老師」として修行僧のご指導をなされていたのでした。

朝比奈老師がお亡くなりになって、僧堂の師家となり、更に朝比奈老師の後任の松尾太年老師もお亡くなりになって。昭和五十五年に円覚寺派の管長になられたのでした。

四八歳の時であられました。

それから実に三十年にわたって円覚寺派管長としてお勤めになられました。

平成十一年から、僧堂の師家を私に譲られて管長職に専念なされました。

そして平成二十二年管長職も辞して閑栖となられました。

私は二十六歳の時に老師のもとに修行に参りまして、それから三十年近く、修行をさせてもらいました。

思えば人生の大半を老師のもとで学ばせもらいました。

季刊誌『円覚』の春彼岸号に、老師の人となりについて書いています。

「老師はいつも怒っている方でありました。それは悪い意味での怒りではありません。正義感の強い老師であり、道義を大事にされていたので、今の世のありようを歎き、憂え、そして怒っておられたのでした。その怒る対象は様々で、大は国家、政府に及びます。
また今の仏教界のありようにも常にお怒りでありました。お釈迦様の教えを慕い、朝比奈宗源老師や山田無文老師を師と仰ぐ老師は、現代の仏教界には悲憤慷慨されていました。

今の臨済宗の僧侶にも常にお怒りでした。もっと修行しないといけないと仰せになっていました。修行年数が短いのに修行道場を去ろうとする者には容赦なくお怒りになっていました。

それから円覚寺のありようにもお怒りでありました。本来拝観料などは取るべきでは無いとは老師の持論でありました。

そして今の修行僧にもお怒りでありました。ですからおそばに置いてもらって、私はいつもこの怒りが自分に向かないようにとばかり念じていたものです。

掃除の仕方がなっていない、料理に心がこもっていない、日常の些細なことにも常にお叱りをいただいていました。」

というものです。

老師のなされる行事ではよく雨が降ったものでした。

それはよく知られていました。

強い暴風雨になることもあり、それは老師の御気性を表しているように思っていました。

七回忌の日もまた、雨でありました。

午後からは強い風も吹いて天気は荒れました。

強い雨風に、老師のお怒りを感じざるを得ませんでした。

当日は雨の中を百数十名もの和尚様にご参列いただきました。

有り難いことでありましたが、「いったい、何をやっているのか」という老師のご叱正は、今もやむことがないのであります。

 
横田南嶺

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