念じることの大切さ
「四念処」というのは、四つのものを念じる大事な修行であります。
岩波書店の『仏教辞典』には次のように解説されています。
「四念処<四念住>ともいう。
四つの専念の意。浄・楽・常・我の<四顛倒>を打破するための修行法で、身体の不浄性を観察し(身念処)、感覚の苦性を観察し(受念処)、心の無常性を観察し(心念処)、法の無我性を観察する(法念処)。」
というものです。
そもそも「念」とは『仏教辞典』に、
「心に思うこと、いつも心に思うこと。」と説かれています。
「これは記憶して忘れないこと」なのです。
身体は不浄であると心に思うことです。
それによって身体に対する執着を離れることができます。
感覚は苦であると、心に思って忘れないことです。
それによって感覚に貪着することから離れることができます。
心が無常であり、変化し続けることを思います。
そうするととらわれがなくなります。
法はすべて無我であると思います。
これも一切のとらわれを離れることができるようになります。
『法句経』にも念じることの大切さを説かれた教えがあります。
『法句経』の注釈書にはこんな話が書かれています。
王舎城に、正しい見解を持つ若者と、誤った見解を持つ若者がいました。
二人はいつも球遊びをしていましたが、正しい見解の若者は球を投げるたびに「仏に帰依します」と念じ、仏を思い起こしていました。
一方、もう一人は仏教以外の聖者を念じながら球を投げていました。
すると不思議なことに、いつも仏を念じる若者のほうが勝ち続けました。
負けていた若者もそれを見て、次第に仏を念じるようになります。
ある日、その若者は父とともに材木を運びに出かけ、帰りが遅くなって城門が閉ざされてしまいます。
父は牛を追って城内に入りますが、息子は城外の墓地の近くで一人、車の下に寝ることになりました。
その夜、墓地には人ならぬ者が現れ、若者を食べようとします。
ある書物には、鬼霊だとも書かれています。
幽霊や妖怪のようなものでしょうか。
しかし、若者は日頃から仏を念じる習慣があったため、とっさに「仏に帰依します」と唱えました。
すると人ならぬ者は恐れて退き、正しい心を持つ人ならぬ者が彼を守りました。
さらに彼らは若者に食事を与え、一夜を守り通します。
翌朝、この出来事が王に知らされ、王は「仏を念じることだけが守りになるのか」と釈尊に尋ねました。
すると釈尊は、「仏を念じるだけでなく、六つの正しい思いを常に修めている人は、他の守りや呪文を必要としない」と説かれました。
その六つとは、仏・法・僧を念じること、身体への気づきを保つこと、不殺生を喜ぶ心、そして修行を喜ぶ心です。
これらを昼も夜も忘れずにいる人は、常によく目覚めた安らかな境地にある、と教えられました。
こういう教えであります。
そして次の偈が説かれています。岩波文庫の『ブッダの真理のことば 感興のことば』から引用します。
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
という偈であります。
このはじめの三つは仏と法と僧との三宝であります。
ブッダのことを思うのです。
坂村真民先生に「世尊よ」という題の詩があります。
世尊よ
世尊よ
あなたに向かいあっていると
なにもかも許していただき
子供のような気持になって
大きなふところに抱かれて
この世を渡ってゆける気がします
世尊よ
わたしは柔和なあなたの
微笑のかげに
あまえているのかも知れません
厳しい誓いをたてなくては
とてもあなたのお側には
寄りつけないかも知れません
これではいけない
こんなことではいけないと
自問自責しながらも
それでいいんだよ
そのままでいいんだよと
おっしやるお声に
つい心を許しているのかも知れません
ああ
集中八万四千衆生
皆発無等等
阿耨多羅三貌三菩提心
世尊よ
あなたのお話を聞き
勇躍歓喜して退いた
その一人に
わたしも加えて下さい
愚かな身の
愚かな願いを
いつの日かかなえさせて下さい
また「お釈迦様さま」という題の詩もございます。
お釈迦さま
お釈迦さま
あなたにお会いしに行くことが
こうも人の話題になるものでしょうか
禅堂に坐りに行くことが
こうも人に変に思われるものでしょうか
本も読まぬ人達と一緒にいるより
わたしは道を求めてやまなかった
あなたと一緒にいたいのです
人の噂ばかりしている人達と一緒にいるより
わたしは汝自当知といわれた
あなたと一緒にいたいのです
良くなろうなんて少しも考えない人達と
一緒にいるより
わたしは難行苦行された
あなたと一緒にいたいのです
そればかりにわたしはあなたのいられる
大乗寺を訪れるのです
……以下省略させてもらいます。
こういう思いが、仏を念じることであります。
法というのはお釈迦様の説かれた教えであります。
僧は集団で修行する人たちの集まりです。
お釈迦様の教えを学ぶ教団ではよく修行が行われていることを思うのです。
そして身体を念じるというのは、注釈書には、三十二相や九墓地と説かれています。
三十二相はブッダのお姿を表すものです。
九墓地というのは、死体が腐乱していく様子を表しています。
こちらは身体の不浄を感じることになります。
それから憐れみの心を念じて、人を傷つけないことを楽しみます。
そして瞑想の修行に励むことを楽しみとするのです。
これら六つを常に念じなさいと説かれています。
念じることは、人生を良い方向へと導いてくれます。
横田南嶺