盤珪禅師と白隠禅師
お二方とも『広辞苑』に名前が出ていますので、一般にも知られていると言えます。
盤珪禅師については、
「江戸前期の臨済宗の僧。諱は永琢。播磨の人。諸国を遊歴し、郷里に竜門寺を創建。のち妙心寺に住す。不生禅を提唱。諡号は仏智弘済禅師・大法正眼国師。(1622~1693)」
と書かれています。
白隠禅師はというと、
「江戸中期の臨済宗の僧。名は慧鶴、号は鵠林。駿河の人。若くして各地で修行、京都妙心寺第一座となった後も諸国を遍歴教化、駿河の松蔭寺などを復興したほか多くの信者を集め、臨済宗中興の祖と称された。気魄ある禅画をよくした。諡号は神機独妙禅師・正宗国師。著「荊叢毒蘂」「息耕録」「槐安国語」「遠羅天釜」「夜船閑話」など。(1685~1768)」
と書かれています。
お生まれになった年は、盤珪禅師一六二二年で、白隠禅師は一六八五年ですので、白隠禅師は盤珪禅師がお生まれになってから六三年の後のことです。
盤珪禅師がお亡くなりになった時に白隠禅師は、八歳でありました。
お二方に直接の出会いはありません。
盤珪禅師は、十二歳の時に「明徳とは何か」と疑問をもって、これを解決するために、死を覚悟するほどの坐禅修行に明け暮れました。
そしてついに病気になり、体もだんだんと弱ってしまいました。
おそらく肺の病気であろうと思います。
痰を吐くと、血痰が固まってころりころりと、まん丸になって出てくるようになります。
血の痰を壁に吐きかけると、固形のようになっていて、ころころと転がって落ちてくるくらいになったというのです。
そんな状態で二十六歳の時に、大悟しました。
十二歳の頃から疑問を持ち始めて、ふと気付いたのは二十六歳ですから、十数年に渡って、もはや死ぬのかなと思う程、体を痛めつけた難行苦行の末に気付いたというのです。
盤珪禅師は、その体験を実に簡単に書いています。
「おりふしにひょっと一切事は、不生でととなふ物を、今まで得しらひて、扨々むだ骨を折た事かなと思ひ居たで、漸と従前の、非をしってござるわひの」。
たったこれだけで、簡単に書いているのです。
これは別のところでは、梅の香りがふっと鼻についた、その香りをかいでハッと気付いたのだという表現もしています。
あらゆることは不生で調う、不生とは何も作りごとをしない、不生の仏心で全て調うのであるということを、今まで知らないで、ずいぶんと無駄骨を折ったものだな、とようやく悟ったのです。
ここで、これまでの過ちを知ったのだというのです。
それからは不生の仏心のままでいればいいのだと説き続けられました。
雑念が起きてもそのままでいいというのです。
盤珪禅師は、雑念を払おうなどというのは、血で血を洗うようなものだと説かれています。
血で衣類か何かが汚れたら、それを血で洗おうとすると、前の血は落ちても、洗う血で汚れるのだというのです。
雑念をなくそうなどというのが、新たな雑念なのです。
それよりも自然と消えてなくなるものなのだから、そんなものには貪着しなければいいというのです。
不生の仏心には、何ら影響はないということに気付いていることが、大事なのです。
かたや白隠禅師はというと、『遠羅天釜』に、
「では、どのようにしたら真正の悟りは得られるのか。平生の生活の中、様々な日常業務の中で、例えば、大勢の敵軍に取り囲まれた時に、たった一人でも囲みを突き破って駆け抜けようとする勇者のように大勇猛心を奮い起こして、四六時中たえず正念工夫してゆくことである。これを続けていくと、やがて、周囲に何もなく、我が心身もともに消え失せたような心境を味わうであろう。しかし、これを不思議に思ったり恐れたりせず、さらに励み進んでいくならば、そのうち間もなく、必ず得る所がある。総じて、参禅は妄念・昏沈睡魔と戦うことである。坐禅中も日常生活の間も、常に意のままにならぬ境と戦い、是非憎愛と戦い、あらゆる境と戦って、正念工夫を推し立ててゆくことである。これを続けるうちに、思わぬ省覚が得られることがあるのだ。」と説かれています。
禅文化研究所発行の『白隠禅師法語全集第九冊遠羅天釜』から芳澤勝弘先生の現代語訳を引用させてもらいました。
白隠禅師が二十一歳のとき、美濃岩崎霊松寺の万休慧長和尚(?〜一七一九)のところに修行に行った時に次のように書かれています。
こちらも『白隠禅師法語全集第三冊壁生草』より現代語訳を引用します。
「結局岩崎の霊松院に掛錫することにした。霊松院には五十人ばかりの雲水がいたが、残念なことに、ことごとく流行りの黙照枯坐の不生禅であった。老いも若きも、一日二度の食事以外の時間は、ずらりと列なつての居眠り坐禅、舟を漕ぐばかりである。夜も更けて開枕(就寝)の合図の鐘が鳴ると、一斉に枕をならべて列なり眠り、一同、声をそろえて「大安楽、大安楽」などと言っている始末である。そんな中で、私一人だけは勇猛心を奮い起こし、決して横になるまいと、少しも睡らず夜坐をした。思えば、彼らの「大安楽、大安楽」という言葉が、かえって私の不臥不睡を励ます方便ともなったのである。」というのです。
これは盤珪禅師がお亡くなりになってからまだ十二年しか経っていない頃です。
それでも「不生禅」と称される人たちは、既に堕落した姿に映っていたのです。
私は長年白隠禅師の教えに従って坐禅をして、公案にも参じてきました。
そして公案も一通り調べたあとに盤珪禅師の語録を読むと、実に自分の体験した通りのことだと思うのです。
お二方の教えは私の上に於いては全く矛盾しないのです。
竹部勝之進という方は、
タスカッタヒト
タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ
と詠っています。
盤珪禅師は、この「たすかることもいらない」、不生でよいという一面を説かれて、白隠禅師は、それは「たすかってみれば」こそであって、まず修行してたすかるという体験が大事だと説かれたと思うのであります。
横田南嶺