ほどこすということ
『広辞苑』には、「布施」とは、
「(梵語dānaの訳。檀那は音訳)
①人に物を施しめぐむこと。
②僧に施し与える金銭または品物。」
と解説されていて、二番の意味の用例としてお寺に「お布施を包む」という表現があります。
岩波書店の『仏教辞典』にはもう少し詳しく解説されています。
「出家修行者、仏教教団、貧窮者などに財物などを施し与えること。
施すものの内容により、衣食などの物資を与える<財施>、教えを説き与える<法施(ほうせ)>、怖れをとり除いてやる<無畏施>に分けられ、これらを<三施>という。
大乗仏教では、菩薩が行うべき六つの実践徳目(六波羅蜜)の一つとされ、施す者も、施される者も、施物も本来的に空であるとして(三輪体空・三輪清浄)、執着の心を離れてなされるべきものとされた。
転じて、僧侶に対して施し与えられる金品をいう。 」
と丁寧に解説されています。
三輪空寂とは、「布施する主体(施者)、布施する相手(受者)、布施する物品(施物)の価値という三要素に執着しないこと」です。
六波羅蜜のひとつであり、布施は戒を守ることと同じように仏教では大事にされています。
無畏施というのは、畏れ無きを施すことです。
「無畏」とは「おそれのないこと、揺るぎのない自信。
仏・菩薩の能力として、説法における四つの揺るぎのない自信を<四無畏>という。
また、衆生を危険から救い、安全な状態にすることを<無畏施>という。」
ということです。
「施無畏」とも言われます。
これは「何ものをも畏れぬ力を与えること」です。
「衆生の種々の怖畏すなわち五怖畏などを取り除いて安心させて救済すること」を言います。
「五怖畏」とは「五つの畏れ」を言います。
『広説仏教語大辞典』には。
「(1)不活畏。布施を行ずるものが自分の生活の破壊を怖れてその所有を尽くさないこと。
(2)悪名畏。自分の悪名を怖れて和光同塵の行を為しえないこと。
(3)死畏。広大な心は発しても自分の死を怖れて身命を抛つことができないこと。
(4)悪道畏。自分が悪道に堕することを怖れて不善法を対治すること。
(5)大衆威徳畏。大勢の人または威徳の人を怖れてその前に獅子吼することができないこと。」
だと説かれています。
施しの究極が我が身をも惜しまないこととなります。
『ジャータカ』には、お釈迦様が前世に菩薩として修行していた時、兎として生まれていたという話があります。
兎は猿・狐・カワウソと共に修行をしていました。
そして「困っている者が来たら施しをしよう」と誓っていました。
ある日、帝釈天が修行者の姿となって現れ、食べ物を求めます。
猿や狐たちは木の実や食べ物を集めて差し出しましたが、兎にはなにも差し上げるものがありません。
そこで「自分の身体を食べてください。」といって火の中に身を投げて自分を施そうとしたという話です。
その慈悲に感動した帝釈天は火を消し、兎を救い、その姿を月に写したとも言われています。
植えた虎に我が身を与えた王子の話もあります。
母虎は飢えすぎて自分の子を食べようとしていました。
王子は深く哀れみ、我が身を施そうと考えます。
虎は弱っていて食べる力もありません。
そこで王子は自分の身体を岩に打ちつけて血を流し、虎に食べさせたという話です。
自分の肉を裂いて施すという尸毘王(しびおう)の話もあります。
この王は慈悲深く、誰にでも施しをすることで有名でした。
ある日、鳩が鷹に追われていて、王に守ってくださいと頼みます。
王は鳩を守りますが、鷹は「私は鳩を食べなければ生きていけない」と言います。
そこで王は鳩の代わりに、私の肉を与えようと言いました。
王は鳩と同じ重さになるまで自分の肉を切り取って与えようとしたという話です。
どれだけ肉を切っても鳩の重さに足りません。
最後には自分の身体全部を秤に乗せる覚悟を示します。
すると鳩と鷹は帝釈天の化身であり、王の慈悲を試していたことが明かされるという話です。
とてもではありませんが、マネのできるものではありません。
無財の七施というのは分かりやすいものです。
眼施といって、やさしい眼差(まなざ)しで人に接することです。
和顔悦色施といって、にこやかな穏やかな顔で接することです。
言辞施は、やさしい言葉をかけてあげることです。
身施は、自分の身体でできることを奉仕することで、重い荷物を持ってあげたり、お年寄りや体の不自由な方のお手伝いするというようなことです。
心施は、人のために心をくばることです。
床座施とは、席や場所を譲ることです。
房舎施は、自分の家を提供してもてなしをしてあげることです。
人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供するのです。
こういうことならば実践できそうに思います。
先日YouTubeの「Zen Cafe ことのは」というのを聞いていました。
須磨寺の小池陽人さんと野沢龍雲寺の細川晋輔さんとが語り合っているものです。
いつもいろいろと学ばせてもらっています。
その中で小池さんが、「共存共貧」ということを仰っていました。
これは私も初めて聞く言葉です。
「共存共栄」はよく耳にします。
それが、栄えるのではなくして、貧しいというのです。
一本の木が独占的に光を吸収しているというのではなく、木と木が共に譲り合いながら光に向かって一緒に成長していることだそうです。
共に貧しくあることによって共生しているというのです。
布施というのは積極的に与えるという行為だけでなく、譲り合うこともそうなのだという話でした。
何かを与えるということは布施の大事な行いですが、相手にとって必要かどうかよく注意しないと難しい一面があります。
施してあげたことで、相手が負い目を感じるようになる場合もあるので難しいものです。
あるいは先方にとっては迷惑になることもあります。
道元禅師には「布施というは貪らざるなり」という言葉があります。
この言葉もいろんな解釈ができると思いますが。自分自身が貪らずにいるということも、まわりに対しての施しになると受けとめることも出来ると思いました。
かつてナマケモノという動物についていろいろ調べたことがありました。
あれは人間が勝手に「ナマケモノ」という名前をつけただけで、決して怠けているのではありません。
一日にわずかの葉を食べるだけで、あとは木の上でじっとしているのです。
これもまたほんの少しの葉だけを食べるというのは、森への施しとも言えましょう。
もともとナマケモノは、とても大きかったとも言われます。
メガテリウムという象よりも大きい動物だったというのです。
それが環境の変化や人間に襲われたりして絶滅して、小さく森でひっそり生きている今のナマケモノが残ったという説です。
ナマケモノは、この象のように大きいメガテリウムの子孫らしいのです。
貪らない、譲り合うというのは、何か消極的にように聞こえますが、仏教のこういう教えはとても深いものだと思います。
横田南嶺