涅槃会に思う
その前の日曜日は日曜説教の日で、雪となって、とても寒い日でありました。
一週間後の十五日は、逆にとても暖かい一日でありました。
涅槃会の十五日は寒い日が多いのですが、こんなに暖かな涅槃会も珍しいと思いました。
いつものように午前十時から佛殿で法要を行います。
雪の中の涅槃会だったこともありましたが、とても穏やかな春を感じる陽気の中を、袈裟をつけて佛殿に向かいました。
境内のあちらこちらにある梅の花もきれいに咲いています。
佛殿に十五分ほど前に入ると、すでに大勢の方がお参りに来てくださっていました。
それから十時まで待っている間にもお参りの方が増えて、次々とイスを出すほどでありました。
これまた有り難いことであります。
かつて午前六時に誰もいない佛殿で行っていたのでしたが、私が管長になって午前十時に行うようにして、多くの方がお参りできるようにしたのでした。
こうして多くの方に佛殿に入っていただいて、涅槃会をお勤めできることはうれしく有り難く思うのであります。
「涅槃」というのは、岩波書店の『仏教辞典』には、
「仏教における修行上の究極目標。インド思想では解脱を究極の目的とするのが通例であるが、仏教は最初期から、解脱とともにこの涅槃の語を用いて修行実践の目的を指し示した。
<涅槃>はサンスクリット語の俗語形の音写で、<泥(ないおん)>ともいう。」
と書かれています。
更に「古くは煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地をいう。」とあります。
貪欲と瞋恚と愚癡という三毒の滅した状態をいいました。
「また、生命の火が吹き消されたということで、入滅(にゅうめつ)、死去をいう」とありますように、お釈迦様がお亡くなりになることを涅槃とも申します。
涅槃会というのは、『仏教辞典』には、「2月15日、釈尊の入滅の日にわが国と中国で行われる追悼報恩の法会。
涅槃とは、本来はニルヴァーナのことで、迷いのなくなった境地を指すが、この場合は釈尊のなくなった意味に用いられている。
実際は、釈尊入滅の月日は不明であるが、パーリ仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日とされている。
ヴァイシャーカ月とはインド暦によると第2の月なので、中国・日本では<2月15日>と定めたのである」
というのです。
そこで毎年二月十五日にお勤めしています。
松原泰道先生が出家得度されたのが、涅槃会の日でありました。
先生の『私の航跡』には次のように書かれています。
「私の出家得度は九歲、ちょうど、釈尊の亡くなった祥月命日の二月十五日、涅槃会の日で、師父の伯父である松原盤龍老師が私を得度してくださいました。
老師は得度式が済むと、私を抱いて、お釈迦さまの涅槃図の説明をしてくれました。
涅槃図のなかのお釈迦さまのおみ足に手をかけて泣いているおばあさんを指さして、こう言われました。
「このおばあさんは、若い娘のころからお釈迦さまに会いたいと、お釈迦さまを探してほうぼうを旅していた。
長い年月が過ぎ、歳をとっておばあちゃんになったころ、ようやくお釈迦さまにお会いできた。
しかしそのときは、お釈迦さまがお亡くなりになったときだった。
お釈迦さまのおみ足に手をかけて、そのおばあちゃんはさめざめと泣いた。
お釈迦さまに会えたけど、ひと言もお説教を聞くことができなかった-」
と、老師は、私にかんで含めるようにはなむけの言葉をくれました。
「お前は、お釈迦さまが亡くなってから二千五百年も経っているけど、お釈迦さまの教えを読むことができるんだからな。いい坊さんになるんだよ」
そう盤龍老師に言われたのを、よく覚えています。」
と書かれています。
朝比奈宗源老師の出家にもこの涅槃会が深く関わっています。
朝比奈老師は四歳で母を亡くし、七歳で父を亡くされています。
その父を亡くされた明くる年の話です。
八歳の時にお寺の涅槃会にお参りになって、涅槃図をご覧になったのです。
その時の思いを老師の著書『覚悟はよいか』に綴られていますので、一部を引用します。
「禅宗のお寺には、かならずあの障子二枚ぐらいの掛軸がある。
お釈迦さまが涅槃に入られるところをうつした図だ。
それを拝んだら、なんと中央のお釈迦さまは、寝台のうえでゆったりおやすみになっている。
まるで達者な人がうたた寝してるようだ。
とてもこれは人間の「死」に直面した図ではない。
儂はなあ、いまでも思うんだ。
この偉大さは、他の宗教に比類がない。
おそらく教祖の臨終のすがたを、これほど堂々たる気宇のなかで描いたものは、ほかにあるまい。
宗教画としては最高だな。
仏教の「深さ」は、ここにきわまり、日本人が思想的に深まりを持てたのは、やはり仏教のおかげだろう。
それだから儂はなあ、和尚さんに聞いたんだ。
お釈迦さまは死んだというのに、なぜ生きているように描いてあるんだ、とね。
すると和尚さんは「うーん」といってね、その和尚さんは特別な人ではなかったが、正直な人でなあ。
「お釈迦さまは、死んでもほんとうは死んだんじゃない。だから、死んだようには描かないんだ」とこういった。
儂はもうびっくリしちゃってな。死んでも死なないとは、いったいどういうことかと、食いさがったんだよ。
お釈迦さまは特別に偉い人だから死んでも死なないんだろうか、あるいは儂の父や母のように平凡に生きた人間でもそういうことが可能なのかと、しつっこくたずねた。
和尚さんはただ正直なだけの人だから、それ以上は「わからない」という。
さあ、それからが大変だ。この「死んでも死なない」というのが八歲の少年の課題になった。傻は、大人をつかまえては、聞いたんだよ。」
と書かれています。
そんなことが清見寺の老師のお耳に入ったのです。
清見寺の老師は、「そういう子供なら儂がもらって育てたい」と仰せになったのでした。
そこで朝比奈老師は、清見寺で出家なされるようになるのです。
清見寺の老師というのは、坂上真浄老師です。
また『覚悟はよいか』には、その頃お寺ではアラレを炒って黒砂糖をまぶしたお菓子をくださったと書かれています。
地方によってはこれを「はなくそ」というそうで、朝比奈老師も、
「関西では「お釈迦さんの鼻糞」というんだって?
そりゃあ面白い。とにかく、その鼻糞にひかれて寺参りさ。」と書かれています。
「はなくそ」がどんなものか、私は直接知らなかったのですが、近年須磨寺の小池陽人さんに教わることができました。
毎年須磨寺でお作りになった「花供曽」を送っていただいて、有り難くいただいています。
涅槃に思うことあれこれであります。
横田南嶺