念念感謝
人間学塾中之島での講演であります。
人間学塾中之島の前身は「天分塾」と言いました。
森信三先生の高弟である、寺田一清先生よって始められた勉強会です。
うかがうと天分塾として十四年、そして人間学塾中之島となっても十四年になるというのであります。
私も寺田先生のご縁で、人間学塾中之島の第二期から講師を務めています。
ですからもう十三年通っていることになるのです。
すっかり顔なじみの方も増えています。
残念ながら寺田先生は、すでにお亡くなりになっていますが、その志は今も受け継がれているのです。
会の始まりには、中之島の歌を歌います。
寺田一清先生の作詞で、「ああ 中之島」という題名です。
名も高き 水の都の
なにわの地
ふかき伝統
うけつぎし
人間学塾
この地この時ああ中之島
願いこめ、この日の本の
再生を心に秘めて
努めんや 心願達成
共に手をとりああ中之島
天仰ぎ地にひれ伏して
願わくば 師恩の光り
しみじみと 念々感謝
この学び舎に ああ中之島
この学び舎に ああ中之島
という歌詞であります。
この中にある「念念感謝」という言葉がいつも響きもよくていいなと思っていました。
私の講座は毎年「禅の教えに学ぶ」と題しています。
そうしてその年によって内容を新たにして講義をさせてもらっています。
今回は、この歌詞にある「念念感謝」を題にして「感謝」について話をしました。
「感謝」という言葉は日常でもよく使われます。
感謝することは大事であります。
仏教の経典や禅の語録などで「感謝」という言葉を見ることは少ないのです。
浩瀚な大蔵経の中でも「感謝」という言葉はないわけではありませんが、数えるほどであります。
それでも「感謝」と同じような言葉はございます。
たとえば「報恩謝徳」という言葉はそれに近いでしょう。
これは恩徳に報いることをいいます。
仏祖や師僧、父母、国王、三宝の恩などに報いることを申します。
食事の際に唱える言葉にも、
「一つには、功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二つには、己が徳行の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。」
という言葉があります。
これは、「この食べ物は、実に数えきれないほどの生き物や、多くの力によってもたらされた恵みであることを思います。
そして私は、この食べ物を受けるにふさわしいかどうか、よく考えていただきます」
という意味ですから、これは食べ物に対する感謝の心を表しているといえます。
しかしながら、六波羅蜜には感謝という項目はありませんし、五位七十五法の中にも「感謝」という心のはたらきは入っていないのです。
五位七十五法はこの世にある物や心のはたらきを分析したものです。
五位七十五法にないからといって決して「感謝」という概念がないわけではありません。
そこで五位七十五法にある大善地法の中でも「慚」と「愧」に注目したのでした。
慚愧という言葉について話をしました。
慚愧は自らを省みて恥じ入ることです。
「慚」はみずからはじること。「愧」は人に向かってこれをあらわすことを言います。
我が身を省みて恥じ入る心があるから、有り難い、もったいない、恐れ多い、忝いと思う心が湧いてきて、それが感謝であるとお話したのでした。
森信三先生には『幻の講話』という全五巻の書物があります。
私は寺田先生からいただいています。
この『幻の講話』の第一巻に、「感謝のこころー宗教について」という一章があります。
そこに
「わたくしたちが「ありがたい」とか、「かたじけない」という気持ちになるのは、自分にはそれを受げるような値うちはないと思っているのに、他の人からひじょうに好意を寄せられるというような場合が、そうだといってよいでしょう。
そこでこうした場合ひとつの大事な点は、わたくしたちが[感謝]の念をいだいたり、有難いという気持ちになるには、かえりみて「自分はそれを受けるに値いしない」という謙虚な自覚が、その根底に予想されるということであります。」
と説かれているのです。
この「かえりみて「自分はそれを受けるに値いしない」という謙虚な自覚」こそが「慚愧」の心ということができます。
更に『幻の講話』では、
「われわれ人間が、真にわが身を幸福とか幸せと思うには、现在ゎが身の置かれている生活の全体が、かえりみてどう考えてみても、自分にはそれを受けるだけの資格がないのに、しかもこのように恵まれているーという自覚がなければ、われわれは自分を心から幸せだと感じないからであります。」
「現在の自分の生活のすぺてが、自分のような人間にとっては、もともと受けるに值いしないというように考えられるとしたら、この世の中には、不平不満ということは一切ないわけで、そういう人こそ、真に幸せな日々を送っている人といってよいでしょう。
それゆえ遠いむかしの時代から、人類の中の秀れた人びとは、人間に対してこのような考えで生きるようにと、人びとを指導して来たのでありまして、それがいわば「宗教」というものの起こりだと申してよいでしょう。」
「現在のわが生活は、自分のようなそれを受ける資格のない身にとっては、実にもったいない生活だということになるわけでありまして、これまで抱いていた色いろな不平や不満が、しだいに消えてゆくばかりか、すべてが「ありがたく」「かたじけなく」「もったいない」ということになるのであります。そしてこのような生活態度が確立した時、その人の生活は、はじめて真にゆるぎなき幸福な生活ということができるでありましょう。」
と説かれているのです。
このような言葉を紹介しながら感謝の心には根底に慚愧という思いがあることを一時間半かけてお話させてもらったのでした。
いつも皆さんがとても熱心に聞いてくださいますし、また毎回新幹線の新大阪の駅までお迎えに来ていただき、また駅までお送りいただくので、身に余ることであり、本当に忝い、有り難いことだと感謝するばかりなのであります。
横田南嶺