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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.02.17
今日の言葉

仏心はどこに

馬祖禅師の教えは、「即心是仏」「作用即性」「平常無事」という三つで説明されます。

小川隆先生の『禅思想史講義』(春秋社)には、まず「即心是仏」というのは、

「「即心即仏」といっても「仏」と等しき聖なる本質が心のどこかに潜んでいる、というのではありません。
迷いの心を斥けて悟りの心を顕現させる、というのでもありません
己が心、それこそが「仏」なのだ。
その事実に気づいてみればいたるところ「仏」でないものはない。
現実態の活き身の自己のはたらきは、すべてそのまま「仏」としての本来性の現れにほかならない」と示してくださっている通りです。

作用即性については、

「「しゃべる(語言)」「見る、聞く、感じる、わかる(見開覚知)」「服を着、飯を食う(著衣喫飯)」「人と話し応対する(言談祇対)」、そうした日常の感覚や動作・行為が、すべてそのまま「仏」としての本来性――「仏」「道」「本性」「本心」「心性」――の発現だというわけです。」

と『禅思想史講義』には説かれています。

そして平常無事について馬祖禅師は、「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。
もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。
もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。
何をあたり前の心というのか。
ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。」
「今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」と説かれています。

この三つについて小川先生は「これらは実際にはひとつの考え」だと説かれています。

「すなわち、自己の心が仏であるから、活き身の自己の感覚・動作はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、」ということになるのです。

さて先日の麟祥院でも勉強会で、この作用即性についてもう少し深く学ぶことができました。

小川先生の資料には、

「「作用即性」の考えにも幅があり、

(A)個体としての自己一身の上で仏性と作用を一つと看る場合と、

(B)個々の個体の六根を通じて宇宙大・無限大の全一なる仏性がはたらいておりそれを全体として体感するという場合があったようである。

唐代にはその相違は突き詰められず両者が混然と併存していたが、五代の時代、雪峰系と玄沙系の分岐という形で両者の差異・対立が顕在化した(最近、土屋太祐『法眼―唐代禅宗の変容と終焉』によって解明された。特にその第1章・第3節、参照。臨川書店・唐代の禅宗12、2024年)。」

ということであります。

そして「宋代には(B)の考えが主流となっていったよう」だというのです。

私などには、我が内にはたらいている仏心仏性は、そのまま無限大で宇宙一杯だと思うのですが、思想的には幅があるのです。

仏心、仏性について少し考えてみます。

仏性というと、岩波書店の『仏教辞典』には、

「衆生が本来有しているところの、仏の本性にして、かつまた仏となる可能性の意。<覚性>とも訳される。」

と説かれています。

「仏性は仏種姓(仏種)すなわち仏の家柄で、その家に生れたものが共通にもっている素性の意ともなる(その所有者が菩薩)。また、将来成長して仏となるべき胎児(=如来蔵)の意味ももつ。」

とも書かれています。

更に
「<仏性>の語は、大乗の涅槃経において「一切衆生悉有仏性」の句で表現されている。これは如来蔵経の「すべての衆生は如来蔵である」という宣言を承けつつ、衆生のうちなる如来・仏とは、煩悩にかくされて如来のはたらきはまだ現れていないが将来成長して如来となるべき胎児であり、如来の因、かつ如来と同じ本性であるという意で、<仏性>と名づけたものである。」

というのです。

もともとお釈迦様が説かれた初期の仏教には「仏性」というのはありません。
お釈迦様が直接説かれたのは、すべては無常であり、固定した実体を持たないという無我であり、そしてあらゆるものはさまざまな因縁によって起こるという縁起の教えでありました。

とりわけ固定的、永遠不変の実体は存在しないというのが基本の立場でした。

「すべての人に仏になる本質がある」というような思想は、初期経典には見られないのです。

それが紀元前後から大乗仏教が成立してくると、思想は大きく展開します。

まずは般若経典による空思想の展開があります。

すべては空であり、固定的実体はないと徹底されます。

しかし、空思想が徹底すると、何もないという虚無と誤解される危険がありました。

そこで空であるがゆえに、可能性は無限であるという積極的な教えが説かれてゆきます。

大乗仏教では「すべての人は救われる」という思想が根底にあります。

「すべての人は仏になれる」と肯定的に説かれたのです。

かくて如来蔵思想が登場します。

すべての衆生の内に如来が蔵されているという思想が説かれます。

涅槃経に説かれるすべてに仏性があるという教えであります。

この教えでは、まだ仏性は内在しているものと言えます。

しかし、更に中国の仏教になって更に大きく発展するのです。

天台の一念三千の教えや、華厳の法界縁起、仏性現起の教えです。

一念三千は「人間の一念の中に宇宙の一切のすがたが完全に具わっている」という教えです

仏性現起では、すべては仏性の現れだというのです。

仏性は、宇宙的原理へと拡張されるのです。

それらが禅の教えとなっています。

馬祖禅師が、心こそ仏であると説かれ、更には「「一切の衆生は永遠の昔よりこのかた、法性三昧より出ることなく、常に法性三昧の中にあって服を着たり、飯を食ったり、おしゃべりしたりしている。(即ち衆生の) 六根の運用きやあらゆる行為が全て法性である」とも説かれています。

初期の仏教では、無常無我という真理を悟り涅槃に入ることを目指したもので、そこではまだ仏性というものは説かれていません。

大乗仏教になって全ての人の救済を説くようになって、あらゆる人には仏になることのできる可能性としての仏性がまず説かれるようになりました。

如来蔵というように、仏性は内在しているのです。

それが中国仏教になって、仏性は大きく拡大してゆきました。

宇宙大、無限大となるのです。

それらが統合されているのが禅の教えだと言えます。

体験的には、見聞覚知の上にハッと仏心のはたらきに目覚めるのです。

その目覚めは、同時に仏心は無限大、宇宙一杯だと気がつくものです。

仏心のはたらきには、内外の区別は存在しないからです。

かくして栄西禅師は、「大いなる哉、心(しん)や、天の高きは極むべからず、しかも心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。日月の光はこゆべからず、しかも心は日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。」
詠われました。

朝比奈老師は、

仏心は生き死にを超え天地を包みて天真独期のものぞ

と詠われたのでした。

このようにはじめ内在していると説かれていた仏心、仏性が、長い年月を経て無限大に宇宙大に説かれるようになったのでした。
長い年月がかかっていますが、それは今瞬時に各人において目覚めるものとなっています。

 
横田南嶺

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