ありのままでいいのか
長慶寺はもと真言宗の古いお寺だったようですが、太原崇孚禅師によって再興されて臨済宗妙心寺派となっています。
開基は今川家三代の今川泰範公であります。
南北朝から室町時代にかけて活躍した武将です。
太原禅師というのは、西暦一四九六年に生まれて一五五五年に亡くなっています。
駿河の生まれで、十歳で富士市にあったお寺に入り、更に建仁寺で得度して仏門に入りました。
のちに妙心寺の大休宗休禅師について修行します。
国に帰ってからは、今川義元公の指南役のような存在でありました。
義元公もまた太原禅師を重んじていました。
太原禅師は雪斎と号して雪斎長老とも呼ばれます。
長慶寺様には開山堂に太原禅師のお像がお祀りされていました。
また書院には今川義元公の書状もかけてくださっていました。
とても由緒のあるお寺であります。
今川義元公というと、よく時代劇などで、桶狭間で油断していて織田信長に討たれた公家かぶれの武将として画かれていますが、それは江戸時代以降の軍記物や講談、そして近代の時代劇によって強調されたものです。
実際の人物像はかなり異なります。
若くして寺に入って建仁寺などでも学んでいます。
家督を継いでからは、駿河を本拠地にして遠江や三河に勢力を広げていて、戦国期でも有数の大名でした。
文化的な教養もあり、政治的な手腕もあったのです。
ただいまそのお寺のお弟子さんが円覚寺で修行してくださっていますので、ご挨拶をかねてお参りさせていただきました。
また鎌倉時代の作という青銅の観音様を拝ませていただきました。
これは昭和のはじめ頃に裏山を開拓した折に見つかったものだそうです。
手を合わせていてかなり古い仏様だろうと思いましたが、実に歴史を感じました。
ご住職ご夫妻の心温まるおもてなしをいただいて、藤枝の長慶寺を後にして東京に向かいました。
午後からは湯島の麟祥院での勉強会であります。
新東名に乗ろうとしましたが、まだ前日の雪の影響で通行止めとなっていて、山梨を回って都内に向かいました。
かなりの時間がかかりましたが、麟祥院には予定通り間に合うことができました。
その日は来日されている張超先生もお見えくださっていて、妙心寺の開堂の儀式についていろいろ学ばせてもらいました。
柳幹康先生もまたお越しくださいました。
麟祥院の勉強会ではまず小川隆先生が大慧禅師の『宗門武庫』 を講義してくださっています。
圜悟禅師が悟りを開かれるという重要なところであります。
圜悟禅師と仏鑑禅師とはもともと、ありのままで仏であるという無事の教えを学んでいました。
それに対して、ありのままではいけないのであって、ありのままを打破する体験がなければならないという教えに参じてゆくのであります。
それが五祖法演禅師の導きによるのです。
ありのままでいいという無事の教えに安住していた圜悟禅師は、五祖禅師のもとに参りましたが、その教えを受け入れませんでした。
しかし五祖禅師は、「やがて一度、熱病にでも倒れれば、そこではじめてわしの事を思うことになろう」と言っていました。
果たしてその通り、二人は病に罹って、無事の教えでは何の役にも立たないことに気がつきます。
そこでようやく圜悟禅師は五祖禅師を訪ねたのでした。
五祖禅師も圜悟禅師の資質を見込んでいたのか、帰ってきたことをとても喜んで侍者として自分のそばにおいていました。
あるときに、陳提刑という役人がその官職を辞して故郷の四川に帰る途中で、五祖禅師を訪ねました。
そこで問答が交わされます。
五祖禅師が、「頻りに小玉を呼ぶも元より無事、だ檀郎の声を認得せんことを要するのみ」という詩を知っているかと問います。
陳提刑は「はい、はい」と答えます。
この漢詩を小川先生は、
「玉や、玉や、と、しきりにねえやを呼ぶけれど、何の用があるでもなし
ただ、愛しきお人に、己が声を聞きとめてほしいだけのこと」
と訳されていました。
五祖禅師は、陳提刑に「もっと子細に参じなければならぬ」と諭しました。
それを侍者としてそばで仕えていた圜悟禅師が、陳提刑がその意を飲み込まれたのかと尋ねます。
五祖禅師は圜悟禅師に、彼は声を聞いただけだと答えます。
「ただ、愛しきお人に、己が声を聞きとめてほしいだけ、そう言われておりますのに、声を聞いたのが、なぜ、ダメなのでしょう」と圜悟禅師は更に問います。
すると五祖禅師は、庭前の柏樹子の公案を示しました。
昔ある僧が、趙州和尚に「如何なるか是れ祖師西来意」と問うて、趙州和尚が「庭前の柏樹子」と答えた公案です。
おそらく鋭く、この柏樹子はどうかと詰問したのでしょう、
そのとき機縁が熟したのか、圜悟禅師はにわかにハッと気づくところがあったのです。
そこで、急いで外に走り出たところ、鶏が欄干に飛びのり、羽を打ち鳴らして高らかに鳴くのが目に入りました
そこで「これこそが“声”ではないか!」と言いました。
圜悟禅師はお香をもって五祖禅師のお部屋に入って、自分の悟ったところを述べます。
五祖禅師も大いにそれを認め喜ばれました。
「我が侍者が禅をモノにいたしたぞ!」と山内の主だった僧たちに知らせたという話であります。
夢窓国師は『夢中問答集』の中で、この漢詩を取り上げています。
小川先生は、『夢中問答集』の原文を読んでくれていました。
ここでは講談社学術文庫『夢中問答集』下にある川瀬一馬先生の現代語訳を参照します。
川瀬先生の現代語役では「この詩は女性の作である。檀郎とは、この女性がひそかに思いを通じていた男である。ある時、かの男がこの女の住んでいる寝室のそばに来て遊んでいた。この時、女が自分はこの寝室の内にいると知らせたいとは思っても、外聞にも気をつけなければならぬと考えるので、召し使う侍女をしきりに呼んで、障子をあけよ、簾(すだれ)をおろせなどと言うけれども、その気持ちはすべてそのような用事にはない。ただひとえにかの男がこの声を聞きつけて、この女房はこの内にいるなと知って欲しいのである。」となっています。
本来の自己に気がついてほしいがために、あれこれと手段を弄しているのだということです。
陳提刑が「はい、はい」と答えたのも、この「はい、はい」と答えているものこそ、ありのままの本来の自己だと言いたいのでしょう。
しかし五祖禅師はそれを認めません。
圜悟禅師に対しては庭前の柏樹子という公案を示して気づかせたのであります。
公案を用いて開悟させるという典型と言ってよろしいかと思います。
公案もまた、本来の自己に気がついてほしいがために、小玉を呼ぶ手段でありました。
五祖禅師の見事な接化ぶりを示した逸話であります。
横田南嶺