湯の峰のあづまや旅館
山本玄峰老師は、この和歌山の湯の峰というところにお生まれになっています。
慶応二年のお生まれで昭和三十六年九十六歳でお亡くなりになっています。
静岡県三島市にある龍沢寺の修行道場を再建され、松陰寺住職も兼ねられ、愛知県犬山市の瑞泉寺僧堂の師家もつとめ晩年には妙心寺派の管長にもなられています。
玄峰老師がお亡くなりになった時には、「最後の禅僧逝く」と報道されたほどでありました。
私は昭和三十九年の生まれなので、玄峰老師にお目にかかったことはありません。
新宮市にある清閑院に坐禅に通っていた私は、そこで玄峰老師についていろんな話を聞きました。
また玄峰老師の提唱の録音を聞かせてもらったこともありました。
そこでその話に感銘を受けて、玄峰老師の著書『無門関提唱』を書店で注文して読んでいました。
中学生の頃でした。
私が初めて書店で本を注文したのが、この『無門関提唱』でありました。
そこである日の事、私は玄峰老師がお生まれになった湯の峰の地を訪ね、玄峰老師のお墓にお参りしようと思ったのでした。
新宮から湯の峰までバスに乗ってゆきました。
湯の峰のバス停で降りると、「玄峰塔」という生誕の記念碑があります。
まさに玄峰老師がお生まれになったところです。
しかし、お墓がどこにあるのかが分かりません。
バス停のところで、和服姿のご夫人に聞いてみました。
すると、そのご夫人は、あづまや旅館の女将さんだったのでした。
あづまや旅館は、まさに玄峰老師のお生まれになったところであり、玄峰老師はご生前毎年お泊まりになっていた旅館です。
あづまや旅館の女将である玉置梅子さんに、玄峰老師のお墓にお参りしたいと申し上げると、とても喜んでくれました。
お墓は湯の峰から二キロほど離れた渡良瀬にあります。
旅館の方に手配していただいて私は無事玄峰老師のお墓にお参りすることができました。
そのあと旅館でお話をさせてもらっていて、私は坐禅をしていること、玄峰老師の本を読んでいることなどをお伝えすると、また喜ばれました。
そして「今度無文老師がいらっしゃるので、ぜひお会いになりなさい」と言ってくださったのでした。
山田無文老師は、明治三十三年西暦一九〇〇年のお生まれで、昭和六十三年の十二月にお亡くなりになっています。
満八十八歳のご生涯でありました。
昭和の終わりと共にお亡くなりになったのでした。
昭和四年(1929)に妙心寺の僧堂に入り、更に天龍寺の僧堂で修行を始められました。
それから昭和二十四年花園大学学長、妙心寺霊雲院住職になられるまで二十年にわたる雲水修行をなさった老師です。
花園大学の学長には四十九歳で就任なさっています。
それから昭和五十三年に妙心寺の管長になられるまで実に三十年近く学長をお勤めでいらっしゃいました。
昭和二十八年五十歳で神戸の祥福寺僧堂師家にもなられています。
昭和三十九年からは禅文化研究所の所長にもご就任されています。
禅文化研究所はこの無文老師が中心になって作られたものです。
無文老師は玄峰老師のことを尊敬されていて、よくお墓参りに見えては、このあづまや旅館にお泊まりになっていたのでした。
無文老師のお話を私はその頃ラジオで聞いていました。
妙心寺派の管長に就任されてラジオの「宗教の時間」でお話くださっていました。
「菩提心をおこしましょう」というお話でした。
その話にも感銘を受けていた時だっただけに、あづまや旅館で無文老師にお目にかかれるなどいう話をいただいて、驚きでありました。
玉置夫人に言われた日に湯の峰にまいりました。
それは昭和五十六年(一九八一)のことでありました。
無文老師の年譜で確認すると、老師が湯の峰のあずまや旅館に御宿泊されたのがその年の四月十九日となっています。
その明くる日に妙心寺派和歌山教区の花園地方大会に出られています。
私がお目にかかったのはこの宿泊なされた時でありました。
晩年の山田無文老師は、あまりものをおっしゃりませんでした。
しかし、私は無文老師のお姿、そのたたずまいに心打たれました。
「よく来てくれたなあ。わしの本でも読んでくれたのか」
「これこれ、こういう本を読みました」
などと申し上げたことを覚えています。
無文老師も嬉しそうにされていました。
ちょうど遅咲きの桜がきれいに咲いているのを窓からご覧になっていました。
しずかに微笑んでおられるお姿は今もありありと思い浮かびます。
人間は修行したら、こんなにまで清らかになれるのかと、その時に思いました。大きな感動でした。
こういう人が目の前にいるのだから、この道に間違いがないと確信したのがこの時でありました。
そのあづまや旅館に泊まりました。
部屋から外を見ると、四十五年前に無文老師がご覧になっていた桜の木が、老木となっていますが、今もありました。
私はその後円覚寺の管長となり、無文老師が長年学長を務められた花園大学の総長となり、そして無文老師が中心になった創立された禅文化研究所の所長になっているのです。
感慨無量であると同時に、改めにご縁の不思議と、我が人生に課せられた任の重さを思ったのでした。
横田南嶺