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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.02.08
今日の言葉

破れた草鞋

滋賀県の高校教師でいらっしゃる北村遥明先生から毎月『虹天』という冊子を送ってもらっています。

毎月いろんな講師を招いて、勉強会を催されて、その講演内容をまとめて、多くの方に配っておられます。

私も毎月拝読して、勉強させてもらっています。

このたび二月号の巻頭に書かれた北村先生の言葉にとても感動しました。

文章を読みながら、久しぶりに涙が流れてきました。

はじめにこんな言葉が書かれています。

「詩人·谷川俊太郎の詩に「私が歌う理由(わけ)」という詩がある。

「私が歌うわけは いっぴきの仔猫 ずぶぬれになって死んでゆく いつぴきの仔猫
私が歌うわけは いっぼんのけやき 根をたたれてかれてゆく いっぽんのけやき」
この詩を読むたぴに、人の心を揺り動かす言葉は、喜びや幸せといった明るい状況よりも、むしろ不安、悲しみ、つらさといった重たいものに寄り添い、向き合ったときに生まれ出るものだということを思う。

たとえば私の場合なら、昔、生徒にかけた言葉を思い出し、我ながら「いい言葉をかけられたな」と思ったり、「いい言葉がかけられなかったな」と省みたりすることがあるが、そのような記憶に刻まれた場面というのは、「死んでゆく仔猫」まではいかなくても、気持ちが重たい状態の生徒を目の前にした場面がほとんどだ。」

という文章であります。

そのあと北村先生は、

「例えば、将来の進路のことを不安に思っている生徒、がんばって努力したけどうまくいかずにしょげてしまっている生徒、ふてくされてしまっている生徒、自分を傷つけ過ぎるくらいにがんばり過ぎている生徒··。」

と書かれています。

それから、二十年前の学年主任の先生が卒業式で語られた言葉が載っていました。

この言葉がまた素晴らしく、北村先生にも二十年経っても心に残っているほどで、私も読みながら涙を流したのでした。

思えば佛教もそんな人の心にそっと寄り添うものなのであります。

お釈迦様のお生まれになった国では農耕を行っていました。

王様は毎年鋤入れの式を行なっていました。

農耕のお祭りです。

その儀式にまだ出家していない若きお釈迦様も参加して農夫の様子を眺めていました。

泥と汗にまみれて働く農夫の姿もいたいたしく目に映ったでしょう、

しかし、それにもまして心を打った情景があります。

鋤で掘りかえされた土の中から虫が現われます。

するとどこからともなく鳥が飛んできて虫をついばんで食うことでした。

生きもの同士が互いに食いあわなければ生きていけないという現実をまのあたりに見て、いたたまれなくなって、近くの森に行き、木蔭に坐って物思いにふけったというのです。

お祭りは華やかなものです。

その華やかな祭りのかげに、いたたまれない思いをして去ったのがお釈迦様のお心であります。

佛教はお祭りで騒ぐものではなく、その場にいたたまれない思いを抱く人のためにあるものだと私は思っています。

ふと若山牧水の「枯野の旅」という詩を思い起こしました。

「乾きたる
落葉のなかに栗の實を
濕りたる
朽葉(くちば)がしたに橡(とち)の實を
とりどりに
拾ふともなく拾ひもちて
今日の山路を越えて來ぬ

長かりしけふの山路
樂しかりしけふの山路
殘りたる紅葉は照りて
餌に餓うる鷹もぞ啼きし

上野(かみつけ)の草津の湯より
澤渡(さわたり)の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂峠」
と始まります。

そして

「草鞋よ
お前もいよいよ切れるか
今日
昨日
一昨日
これで三日履いて來た

履上手の私と
出來のいいお前と
二人して越えて來た
山川のあとをしのぶに
捨てられぬおもひもぞする
なつかしきこれの草鞋よ」

と詠われています。

禅語に「破草鞋」という言葉があります。

草鞋など今日ほとんど見かけなくなってしまいました。

昔の旅には欠かせないものでありました。 

今でも、我々の禅の修行道場では、坐禅と共に托鉢の修行を大事にしていて、その折りには、古式ゆかしく脚に脚絆をまいて、草鞋を履き、網代傘という笠を目深にかぶります。

しかし、藁の入手が困難になった今、草鞋は貴重品となりました。

そこで近年はビニールひもを使って自分たちで編んで草鞋を作っています。

藁ではないので、もはや「ワラジ」とは言えないかもしれません。

ビニールですから丈夫で長持ちします。

しかしながら、あの藁のやわらかな、そしてあたたかな感触は得られないのです。

藁のワラジは、すり減るのも早く、雨にでも遭うとすぐ駄目になってしまいます。

それだけに、心して慎重に履いていたものです。

もう使えなくなったら、その草鞋には感謝して、畑の肥料としたのでした。

そんな草鞋なればこそ、牧水の歌が生まれたのだと思います。

この「捨てられぬ思い」を大事にしたいのであります。

修行時代に托鉢の折に、よく口ずさんだ牧水の詩であります。

ずぶぬれになって死んでゆく子猫に私たちはなにも出来ません。

部屋につれて帰ることもできません。

なにもしてやれません。

しかしそのなにもしてやられぬ自分を嘆いてそこにたたずんでいる心、そのときの悲しいうめき声、声にならぬ声を忘れてはならないと思うのであります。

 
横田南嶺

破れた草鞋

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