禅の歴史と修行
東山法門といわれる最初期の禅宗の坐禅の様子から、馬祖禅師に到るまでの坐禅の変遷を学んだのでした。
最初期の禅宗の坐禅について説かれていたことは、筑摩書房『禅の語録2初期の禅史Ⅰ』にある『楞伽師資記』に因っています。
鏡を磨くようなもので、塵やほこりをつけないように修行するのです。
一行三昧と呼ばれるように、一つのことに集中する教えです。
四祖道信禅師は、「一を守って移らず」と説かれています。
筑摩書房『禅の語録2初期の禅史Ⅰ』にある現代語訳を引用します。
「一つのものを守って動かぬというのは、以上のようにからりとして浄らかな眼で、よく気をつけて一つのものを見つめ、昼と夜の区別なしに、力いっぱい努めていつも動かぬことである。
そして、君の心が散りそうなときは、いそいでまたひきしめ、あたかも縄で鳥の足をくくって、飛び立とうとしても手もとにひきもどすように、一日中よく見守ることをやめぬなら、すベてが消えつきて自然に心は安定するであろう。」
と説かれています。
また五祖弘忍禅師は「坐禅するときは、水平なところに身をただして正しく坐り、身も心ものびのびとひろげ、はるかに視野の果てるあたりに、一という字を見つめることだ。」と説かれました。
こういう訓練を長く根気よく続けるのです。
あたかも弓で矢を射るように、何度も何度も修練していくと、大きな的から小さな的にも当たるようになるというのです。
更にその小さな的の中心に当たり、更には前に射貫いた鏃に当たるようにまでなると説かれています。
そんな心の集中に心がけるのです。
それが更に神会禅師になると大きく変わってきます。
禅定に入って出るという区別がなくなります。
そのように分けることが迷いなのです。
道を修めようという思いすら余計なものとなります。
悟りを求めようという心を起こす作意を否定します。
今こうして話をしているままに禅定も智慧も等しく露わになっていると説いています。
そこから更に無住禅師はあらゆる時が禅であると説かれるようになりました。
ただ「閑」であって、それでいて生き生きとはたらくのです。
そして馬祖禅師の教えへと発展します。
平常心がそのまま道なのです。
悟りを求めようということが汚れであると説かれました。
迷いと悟りと二つに分けることを否定されたのです。
今こうして立ったり歩いたり、横になったりする全てが道だと説かれたのでした。
そんなお話を聞いていて、この坐禅の歴史は、自分のたどった修行の道筋と同じだと気がつきました。
私は十歳の頃に坐禅を習いました。
足を組み手を組んでじっと坐ることが坐禅だと教わりました。
こうしてじっと坐禅をしていれば、何かが分かると信じてきました。
そのために長く坐れるように関節をやわらかくするように勤めました。
数息観というのを教わって呼吸に集中する訓練を続けました。
それから中学生の頃から公案をいただいて、こんどはその公案に集中する訓練をしました。
あたかもそれは「一を守って移らず」という修行でありました。
修行道場に入ってからもひたすら坐禅するように努力しました。
台所で修行僧たちの食事を作る役になった時にも、いかに作業を手際よく早く終えて坐禅の時間を作るかということに意を注いできました。
台所に単布団を置いて早く仕事を終えてその布団の上で坐を組んで坐るようにしていたのでした。
しかし、或る時に、そのように坐禅とそうでない時と区分することがおかしいのではないかと気がつきました。
仏心とか仏性と説かれるものが、この体の上に始終はたらき通しであることを実感することができたのでした。
どんな作業をしていようが、それが坐禅と変わらぬようになってきました。
ただし、それはまだ修行道場においての掃除や食事の支度などの修行が坐禅と等しいとなったのでした。
まだまだ日常の営みすべてが道であるというには程遠いものがありました。
それが更に管長という役について、人に会う、人前で話をする、頼まれて字を書く、手紙の返事を書く、本を出すなどの仕事が増えました。
また迷いが出てきて、それらは俗事でいかに早く終えて坐禅をしようとしていました。
しかし、坐禅とそれ以外の仕事を分けている時には、常に葛藤がつきまといます。
仕事が増えると坐禅が減るという苦しみが生まれます。
しかし、この苦しみは仕事が多いから生じるのではありません。
仕事と坐禅を区別している私の心が生み出しているのです。
そんなことに気がついてくると、だんだん何をしていても坐禅ということに近づいてきました。
イスに坐ると坐禅ではないと思ってイスの上で足を組んできました。
しかし、この不安定なイスの上に坐っていても坐禅になるということが実感できてきました。
横になっても坐禅という寝る禅も実習しています。
理論だけではなくて、あくまでも実習して体感することができてきました。
そこで小川先生がご講演の最後に、私の『坐禅せずに坐禅しみよ!と問われたら』から私の言葉を引用してくださいました。
「だんだんやっていくうちに、あらゆることが坐禅の延長になっていったんですね。坐禅というのは、それまでずっと「足を組んで坐る」という形の中にありましたけれども、その形をとっているときだけではなく、いろいろな動きをしているときにも坐禅の本質は失われていないということがわかってくるんです。そうすると、あらゆる営みが坐禅になってくる。どんな時も坐禅。……近頃は、「日常が坐禅」はかなり言い得ているなと、自分では思っているんですけどね。 (頁187) 」
ということになります。
ちょうどその講演を拝聴したあとに、とある冊子を読んでいたら、ヨガの先生が、「一日何時間ヨガをしていますか」と問われて、「歩いている時もご飯を食べているときも、寝ていても全部ヨガ」だと答えていました。
ポーズの練習をすることだけがヨガではないと説かれています。
まさにこの通りだと思ったのでした。
私も坐禅と坐禅でない時との区分はだんだん消えてきました。
その区分がないことを確かめるために毎日坐禅をしています。
イス坐禅や寝る禅もそうです。
禅宗の歴史を勉強してきて、それは数百年の歴史なのですが、私が十歳から坐禅を始めて半世紀にわたる修行と同じように重なっていると思ったのでした。
横田南嶺