鬼退治
神社仏閣では著名人などが参加して盛大な豆まきを行っているところがあります。
円覚寺では、大きな行事はありません。
建長寺で盛大な豆まきが行われているからだと思います。
夕方、修行道場で修行僧たちが豆まきをしているだけです。
節分の豆まきはいつ頃から行われているのでしょうか。
もともとは、「追儺」という儀式によっています。
「追儺」というのは、『広辞苑』によると、
「宮中の年中行事の一つ。
大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。
鬼に扮装した舎人(とねり)を、内裏の四門をめぐって追いまわす。
大舎人長が鬼を払う方相氏(ほうそうし)の役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳(も)を着け、手に矛・楯を持つ。
これを大儺(たいな)といい、紺の衣に緋の末額(まっこう)を着けて大儺に従って駆けまわる童子を小儺(しょうな)とよぶ。
殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。
古く中国に始まり、日本には八世紀初め頃、文武天皇の時に伝わったといわれ、社寺・民間にも行われた。
近世、民間では、節分の行事となる。
「おにやらい」「なやらい」とも。」
と解説されています。
弓矢で鬼を追い払う追儺が、いつの頃から豆をまくようになったのか、はっきりしません。
平安時代は弓矢で追い払う追儺が行われていたようです。
それが平安の終わり頃から鎌倉時代にかけて豆をまくように変わってきたという説があります。
江戸時代には、今の豆まきになっていたと言われています。
またもともと大晦日の行事だったのが、立春の前の日に行われるようにも変わっていったのでした。
もとは年越し前の穢れや厄を払う儀式でした。
それが、立春が新しい始まりであり、冬から春への境目でもっとも穢れもたまる頃と考えられていったのでした。
鬼はいまでは、赤い鬼と青い鬼があって、角があって虎の下着を着けています。
もともと鬼には姿はありませんでした。
岩波書店の『仏教辞典』には、鬼は、
「死者の霊を一般に<鬼(き)>という。
中国では古来、心思を司る<魂(こん)>は昇天して<神(しん)>となり、肉体を主宰する<魄(はく)>は地上にとどまって<鬼>となるとするが、<鬼>字は人屍の風化した姿から成立し、「鬼は先祖を祭るなり」〔広雅釈天〕とあるように亡霊をいう。
人の認識を超えて、人に働きかけてくる超人間的作用のうちの忌避すべき観念につらなる。漢字部首の<鬼>は死霊およびその作用を総括する。」
と解説されています。
同じく『仏教辞典』には、日本における在来概念と展開について書かれています。
「日本の<おに>の語源については諸説があるが、<隠(おん)>の字音の転訛らしく、原義は隠れて見えないもの、すなわち常民社会とは異なる世界にあって不断は目に見えないものの意であろう。」
とまず書かれています。
目に見えないものだったのです。
更に「それらは折にふれて常民社会に去来し、その生活に多大の影響を及ぼし、特に種々の災禍をもたらすことが多いと考えられた結果、畏怖すべきもの、猛々しく恐ろしいものとされるようになったのであろう。
古代人にとっての他界は空間的異境に限らず、過現未にまたがる霊界にもわたるものであったから、<おに>の対象も多様で、海のかなたの異邦人はもとより、平地の住民から見れば生活習俗を異にする山住部族も<おに>であり、常民社会に災害をもたらす生霊・死霊のごとき怨霊(おんりょう)なども鬼の一種であった。」
と解説されています。
それからその姿については、
「ちなみに形状一つを例にとっても、平安時代などはいわば習作時代で、人体を基本に鬼の猛威と怪奇性を強調するための種々のデフォルメが施され、肌色も黒・赤・紺青・緑など多彩で、後世の『百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)』を見る思いがする。
しかし、鎌倉時代の『北野天神縁起絵巻』に描く地獄の冥鬼などになると、明らかに後世の鬼の固定的イメージの原形と見られるものが確立している。」
というのです。
江戸時代には、今の「赤鬼・青鬼」の姿が完成されるようです。
赤鬼と青鬼がいて、それぞれ角があり、虎の皮の腰巻をつけて、金棒を持っている姿になるのです。
実際に鬼退治の話も伝わっています。
平安中期の武将である源頼光は、摂津などの国司を歴任して、大江山の酒吞童子を征伐しています。
酒呑童子は「鬼のすがたをまねて財を掠め婦女子を掠奪した盗賊」で、「丹波国大江山や近江国伊吹山に住んだといい、大江山のは源頼光が四天王と共に退治したという。」と『広辞苑』に解説されています。
渡辺綱にも鬼退治の話があります。
渡辺綱は、源頼光四天王の一人として知られ、剛勇無双の名を天下に轟かせた人物であります。
その綱の武勇を象徴する逸話として、最も有名なのが羅生門の鬼退治です。
当時の都・平安京では、都の南に建つ羅生門に鬼が出没し、通行人を襲うという噂が広まっていました。
荒廃した羅生門は死体が捨てられる不気味な場所となっていました。
夜ともなれば人々は近づくことすら恐れていたのでした。
ある夜、頼光の館でこの噂が話題にのぼると、誰一人として鬼の正体を確かめに行こうとする者はいません。
そんな中で「それがしが参ろう」と名乗りを上げたのが渡辺綱でした。
綱は一人、太刀をもって羅生門へと向かいます。
夜風が吹き荒れ、月明かりに照らされた門の上に、突如として鬼が姿を現しました。
鬼は恐ろしい形相で綱に襲いかかり、怪力で太刀を奪おうとしました。
綱は、気合とともに太刀を振るい、鬼の腕を切り落としました。
鬼は苦悶の叫びを上げ、闇の中へと逃げ去ったのでした。
節分は、もともと宮中で行われた追儺という厄除け儀礼が、季節の変わり目である立春の前日に行われるようになったものです。
それが時代を経て民間にも広がったものです。
豆をまいて鬼を追うというのは、もともと疫病や災厄を払う意味がありました。
それだけでなく、人の心にある穢れや乱れを祓い、新しい春を迎えようとする祈りが込められていると言えます。
横田南嶺