講了
修行道場は二期制で、夏の雨安居と、冬の雪安居とにわかれます。
安居はお釈迦様の時代以来の修行であります。
岩波書店の『仏教辞典』にも
「仏教教団で、修行者たちが一定期間一カ所に集団生活し、外出を避けて修行に専念すること、またその期間をいう。雨季の定住。<雨安居>ともよばれる。」と解説されています。
更に「インドでは春から夏にかけて約3カ月続く雨季の間は、外出が不便であり、またこの期間外出すると草木の若芽を踏んだり、昆虫類を殺傷することが多いので、この制度が始まったとされている。」と書かれている通りです。
それが雨期の無い中国や日本でもこの習慣が受け継がれていったのです。
禅宗ではいつの頃からか、冬の安居も行うようになっています。
それが雪安居です。
円覚寺の修行道場では十月二十日から一月三十一日までを雪安居として修行を致します。
その間は毎月一週間摂心といって坐禅に集中し、その期間は毎日講座といって語録の提唱をしています。
この雪安居は、修行僧からの希望で、十牛図を読みました。
十月二十日の開講式で、十牛図の序文を読み始めて、先日の講了で、十牛図の最後の入廛垂手を終えました。
廛は「やしき。平らな宅地や屋敷。庶民の住宅。みせ」という意味があります。
垂手は文字通り手を垂れることですが、『禅学大辞典』には、
「師家が学人を接化するために、向下門に下って、親が手を垂れて小児を愛育するように接化すること。垂手為人·入廛垂手などと熟字して用いる。」と解説されています。
序文には、
「柴門独り掩って、千聖も知らず。自己の風光を埋めて、前賢の途轍(とてつ)に負(そむ)く。
瓢(ひさご)を提(ひつさ)げ市に入り、杖を策(つ)いて家に還る。
酒肆魚行、化(け)して成仏せしむ。」
と書かれています。
『禅の語録16信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』には、
「町にでかけ手を垂れる、まえがきの第十
ひっそりと柴の門を閉ざしてしまって、どんな聖者も、かれの境界を知ることはできぬ。
自分のもつ輝きをかくすとともに、昔の祖師方の歩いた道をゆくことを拒んでいる。
徳利をぶらさげて町にゆき、杖をついて隠れ家に還るだけで、酒屋や魚屋たちを自然に感化して成仏させるのである。」
と現代語訳が書かれています。
「酒肆魚行」というのは酒屋と魚屋のことです。
「酒肆」の「肆」は「つらねる。横に長く並べる。並べて見せ物にする。品物を横並べて見せるみせ。」という意味があり、「酒肆」で酒屋のことです。
「魚行」の「行」には「問屋。同業組合。また転じて、俗語では、大きな商店や専門の職業。」という意味があります。
「銀行」という場合の使い方です。
酒屋や魚屋というと修行している者には無関係なところなのです。
しかし、そんなところに行って、みんなを成仏させるはたらきがあるというのです。
頌は
「胸を露わし足を跣(はだし)にして廛に入り来たる。土を抹し灰を塗って、笑(わらい)腮(あぎと)に満つ。
神仙真の秘訣を用いず。直に枯木をして花を放って開かしむ。」というものです。
現代語訳は
「かれは胸を露わし素足で市にやってきた、塵にまみれ、泥をかぶりながら、顔中がニコニコしている。仙人のかくしもつ秘術も使わずに、ずばりと枯木に花を咲かせる。」となっています。
「神仙真の秘訣」というのは、仙人になって天に登る秘法を言います。
鈴木大拙先生の『東洋的な見方』には
「仏はただじっと坐っているのでない。…慈悲は行動の原理であるから、けっして人をして閑坐せしめることではない。
四苦八苦の娑婆の真中へ飛び出て、堪え難きに堪え、忍び難きを忍び、刻苦精励して、人間のため、世界のため、何か大慈大悲底の仕事を行ずるのである。」
という言葉があります。
まさにこの通りなのです。
十牛図の第七図までは相対分別の迷いの世界でした。
それが第八図になって、迷いも悟りもすべて脱落します。
一円相のみの世界です。
まさに空の世界であり、無分別の世界であります。
そこに留まることなく、もう一度現実の世界に現れます。
それが第九図でした。
そしてその現実の世界に於いて、慈悲の行動に出るのです。
これが第十の入廛垂手なのです。
山田無文老師は禅文化研究所の『十牛図』で
「あまり荘厳な悟りきった顔をしていると、みんながこわがるから、修行のできたような顏もせず、学問のあるような面もせん。まるで、顏に土を塗り、灰をかぶったような、大バカになってニタリニタリと笑っておるのだ。
その顔は、それは何とも言えん。
「笑い腮に満つ」だ。
腮のはずれるほど笑う。
そういう笑いに触れたものがみんな善心に帰って、仏性を自覚するのである。
説教をせんでも、提唱をせんでも、この坊主の顏を見るというと、みんなが救われてしまう。」
と提唱されています。
更にまた
「ボロボロの着物を着て町の中に入り、町のおっさんとコーヒーを飲み、兄ちゃんと一緒に煙草を分け合って飲んでゆく。
そして、人を敵視しない、誰とでも溶けあっていけるその笑いには、みんなが感化されてしまう。
そうならなければいかん。
いくら顔が笑っておっても眼が笑わなかったら本当の笑いではない、と言った人がおるが、これはなかなかうがった意見だ。犬でも猫でも、まず人の眼を見る。その眼が敵視している眼ならば、なんぼ笑ってもついてはこない。まず眼が笑うということは、心が本当に笑っているということである。」
と説かれています。
これはまさに夢窓国師の説かれる無縁の慈悲であります。
その人に接しただけで救われていくのです。
なかなかこうなるには容易ではありませんので、私たちはまた更に修行を重ねるのであります。
横田南嶺