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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.01.25
今日の言葉

大安楽

甲野陽紀さんとの対談を行った折に、一般の方からの質問に坐禅をすると足首が痛くなってしかたないのですが、どうしたらいいですかというのがありました。

今の私たちの生活で動かなくなったのは、やはり足首や股関節だと思います。

特に股関節の可動域は極めて小さくなっています。

股関節はいろんな方向に回るようになっていますが、私たちが歩くのは平坦なアスファルトの道や、階段をあがるにしてもそれほど段差もありません。

有り難いことに無理なくあがれるようになっています。

そこで今は股関節を大きく動かすというような運動は、日常の中でほとんどなくなってしまったと言えます。

昔なら舗装されていない道ですから、大きな岩があれば大きな岩をまたがなければいけませんし、時には倒木があれば乗り越えていかないといけません。

岩や樹にもよじ登っていたのでした。

そうすると股関節は否が応でもいろんな方向に動いたものです。

足首もかなり固まってしまっています。

和式のお手洗いも少ないので、しゃがむ姿勢も難しいこともあります。

股関節が十分動かないのに、膝と足首を無理やり曲げて、坐禅の足の踏み方をすると、足首や膝を壊すことになりかねないのです。

股関節が十分開いた上で行わないと、膝の可動域は極めて少ないので無理に曲げてしまうことになります。

足首もひねったような状態にするのは、痛みを生みます。

おそらく昔の人は、股関節が十分開いた状態で、膝を無理なく曲げて、そして足首が逆の足の腿の付け根につくような組み方ができたのだと思います。

しかし今はもはやこの股関節の可動域が狭くなってしまっている状態なのに、無理やり,膝を不自然な方向にねじ曲げ、足首を曲げて、昔の人がやった坐禅の形だけを真似ようとするのは無理があります。

そんなことをお話しました。

先日は佐々木奘堂さんにお越しいただいて、坐禅講座を開催してもらいました。

奘堂さんははじめに、よく坐禅すると足が痛い、足首が痛む、膝が痛いと言われますが、痛みを軽くするどころか、一番安楽なあり方で生きていくのが仏道だとお話くださいました。

一番安楽な法門が坐禅なのだと奘堂さんは確信していると仰っていました。

奘堂さんは夏目漱石の『吾輩は猫である』にある言葉を示されました。

「無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。
自から求めて苦しんで、自から好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。もうよそう。 」

という言葉です。

自ら足を壊すような坐り方をするのは、自ら拷問にかかるようなものだというのです。

それに対して、これも同じく夏目漱石の『門』という小説から次の言葉を引用されました。

「頭の巓辺から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前する」

という言葉です。

釈宗演老師の『禅海一瀾講話』には、

「静坐の作法は皆な御存じの如く、脊梁骨を立って、世界中を臍下に押し込んでしまったような心で、一切の物を気海丹田にたたみ込み、そうして 脳髄の頂上から、足の爪先まで、ズット全身の力を此所に集中し以て、 「未生以前、本来の面目如何」と直ちにこう這入ってゆくのである」と示されています。

夏目漱石は円覚寺に滞在して釈宗演老師について坐禅をされています。

父母未生以前本来の面目というのは、漱石が宗演老師から与えられた公案であります。

この頭のてっぺんから足の爪先までを充たすというのが大事なのです。

ところが坐禅をすると、どうしても膝と足首を曲げていますので、爪の先まで充たすのは難しいと思われます。

単に足の指先を曲げたり伸ばしたりするのではありません。

全身をバネのようにして起き上がると、足の爪先まで充実するのです。

そこで赤ん坊が寝返りを打ったり、起き上がろうとする動画を見せてもらいました。

背骨をバネのようにして、足の先まで充実して動いているのです。

腰を無理に反らしたりすることもありません。

全身が躍動しているのです。

そこで私たちも起き上がって蹲踞する姿勢になり、そこからお尻をつけにいって坐るという動作を何度も繰り返しました。

大腿骨で足踏みをすることもしました。

そうすると、足の付け根、大腿骨で立つという感覚が養われてきます。

よく禅ではありのままでいいということが言われますが、奘堂さんは自分の頭の中で概念でありのままだと思っても、それはありのままではないのだと仰っていました。

まさにその通りです。

ありのままだと思うのは、もはや本当の命が躍動する自然ではありません。

ありのままだと思っても、お互い人間は生まれてから何十年も過ごすうちにいろんな癖をつけてしまっています。

それをそのままでいいという意味で、ありのままにしていると何か大切なものを失ってしまいます。

「人間が思うありのままというのは、概念の中のありのままだ」という言葉は印象に残りました。

奘堂さんは「坐禅とは何か、頭のてっぺんから足の爪先までがことごとく充実していることです。」と仰いました。

頭のてっぺんから足の爪先まで充実する、命が躍動するような坐禅を心がけたいものです。

それでこそ真の大安楽の坐禅となります。

毎回奘堂さんは熱意を込めてお話くださいます。

そのお姿に命の躍動を感じます。

 
横田南嶺

大安楽

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