相手の目線
二人それぞれ三十分ほど話をしてから、皆さんの前で対談をしました。
はじめに話だけでは物足りないだろうからといって、二人でワークを行ってみました。
最初に手の指先に注意を向けるというのを行いました。
この指先といっても、自分が指先だと思ってパッと合わせるところがいいのです。
それは人によっては指の腹の部分になったり、爪の先になったりしますが、それはそれでその人なりに指先と思って着けるところでいいそうです。
そうして指先に注意が向いていると横から押されても動かなくなるほど安定します。
ところが、これが、私が指先だと思って合わせたところよりももっと爪の先を合わせるようにすると、いっぺんに体が崩れます。
これは不思議でした。
やはり注意を向けるというのとは違う感覚になります。
注意を向けると意識を向けるのとではどう違うかという質問もありました。
一動作一注意と甲野さんはいつも仰せになるのですが、それを聴いた人が家に帰ると、注意を向けるというのが、意識を向けるに変わっていたりすることがあるそうです。
甲野さんは、意識をするというと、体の動きが重くなるという感覚があるそうです。
意識するというと体が動くのに時間がかかっている感じるなのだというのです。
意識というのは意識改革という言葉があるように、建物でいうと設計図の段階のように、いろいろ考えるのが意識の領域だと仰っていました。
体を動かす時というのは、注意を向けるというだけでいいということなのです。
注意の方が軽いというのは、瞬時にパッと向けられるものだという感じがしました。
そこでパッと指先だと思って触れたところにポンと注意を向けるのと、少し違和感のある爪の先だと、なにか意識の上で、違和感を覚えて、ここでいいのかなとかいろんな思いが交錯してしまうのです。
それからもうひとつ皆さんの前で実演したのは、相手の目線になることです。
これも私が実験台になりました。
私が立っている後ろにイスを置きます。
甲野さんがイスの後ろから私の肩に手を当てて私をイスに坐らせようとします。
私は坐るまいと抵抗します。
はじめに甲野さんが私の肩に両手を当てて、まず甲野さんは甲野さんの視線で私の体を下げようとするのですが、抵抗すると私の体は下がりません。
イスには坐らないのです。
ところが今度は甲野さんが私の目線に注意を向けます。
私が見ている景色を思うのです。
同じ方向を向いているので、似たような景色なのですが、私が見ている景色に注意を向けて、私の視線を下げるようにしておさえると、これはスッとイスに坐ってしまうのです。
抵抗できないのです。
これは不思議というほかありません。
そしてこれはお互いの生活の上にもいろいろ応用できることだと思いました。
自分が相手を変えようとしても自分の考えを押しつけるようでは相手が変わることはありません。
むしろ抵抗が強くなるでしょう。
そこで今相手はどんな景色を見ているのだろうかというところに注意を向けてみるのです。
その人の見ている景色というのは私の見ている景色とはまた異なっているのです。
そこに注意を向けてみると何か変わることがあるかもしれないと思いました。
ここまでは『坐禅せずに坐禅してみよ!と問われたら』の本にも書いてあるところです。
そして今回は更に進化した方法を教えてもらいました。
これは私も初めて体験させてもらいました。
常に工夫して進化し続けておられるのを感じました。
それから皆さんの質問に答えてゆきました。
正しい歩き方を教えてくださいというのがありました。
これなどは禅宗的に言うと、「それは只歩くのだ」で終わりになってしまいます。
それでは申し訳ないものです。
甲野さんはいろいろの注意点を教えてくださいました。
簡単な方法では足の中指をまっすぐに向けるということを教えてくれました。
これは大事だと思います。
私も毎朝五体投地をして立ったり坐ったりを繰り返しますが、その時に足の中指が正面に向くように、そしてその方向に膝が曲がるように意識しています。
これで体が調整されてゆきます。
どうしてもどちらかにゆがみがちなものです。
それから子育て中の方が、「台所にいる時間が長いのですが、とても疲れます。家事をしながら、楽にするための身体の使い方を教えて欲しい」という質問がありました。
これも大事なことです。
日常の営みのなかで体を調えることができれば一番いいのです。
これはもう終わり頃になってしまってあまりじゅうぶんな時間がありませんでした。
そこで甲野さんには簡単にできるものを教えてくださいとお願いしました。
そこで教えてくださったのが、やはり足の中指でした。
中指を正面に向けて立ってみることを勧めてくださいました。
これについては私も一つだけ、膝をピンと伸ばさずに膝を緩めて、股関節を少しだけ曲げるようにして股関節に重心が乗るような姿勢で洗い物をしたり野菜を刻んだりなさると腰の負担が軽くなりますとお伝えしました。
中には長時間坐禅していてエコノミー症候群にならないのですかという質問もありました。
これは長時間坐禅しているからといっても三十分ごとに経行と言って歩くことをしていますし、実際にじっと動かずにいるわけではないのですとお伝えしました。
甲野さんは、エコノミー症候群になるというのは、どうしても皮膚を押しつぶしていると思うと仰っていました。
イスに坐るにしても「お尻で坐る」という言葉にすると、お尻がどこか、漠然としてしまいますが、お尻の皮膚で坐りにいくという感覚をもってもらうとよくなるのだと教えてくださいました。
実にたくさんの質問をいただいていたのですが、とても全てにはお答えできず申し訳ないことでした。
それでもその中から皆さんの生活に参考になるような質問を選んで学ばせてもらったのでした。
横田南嶺