坐禅せずに坐禅する
身体技法研究者の甲野陽紀さんとの対談をまとめたものです。
先日は、この出版を記念して円覚寺で特別企画を行いました。
午後一時から午後四時までの催し物であります。
百名ほどの方がご参加くださり盛況のうちに終えることができました。
どういう内容だったかというと、まずはじめに私と甲野さんがそれぞれ三十分ずつ話をします。
その合間に休憩を十分と十五分取っておきます。
参加者の方はその休憩の間に、質問を紙に書いてもらいます。
質問は甲野さんと私の二人に対しての質問や甲野さんへの質問、私への質問といろいろあります。
そしてそのあと九十分ほど、甲野さんと私で対談をします。
そんな催しでありました。
対談だけではおもしろくないので、二人でいくつかのワークもやってみました。
本当はみんなでワークを行うのがいいのですが、百名もお集まりいただくと、動くことができなくなります。
それでも途中でその場で出来ることを行ってみたのでした。
私が三十分で話をしたのは、「坐禅せずに坐禅する」ということでした。
これがこの本のテーマだと思ったからです。
「坐禅せずに坐禅する」という実に矛盾した表現です。
こんな訳の分からないことを言うので禅問答と言われるのかもしれません。
たしかに禅問答には訳の分からないものもあります。
それは論理的な思考を停止させるためにあえて論理的には成り立たない問題を与えることもあるのです。
「坐禅せずに坐禅する」という言葉については、少し言葉を補うと、これが何を言おうとしているのかが分かります。
「形式的な坐禅をせずに、ほんとうの坐禅をする」としてみたら、これは理解できると思います。
祈っていても祈っていないことがあります。
これは形式的に祈りの為に衣装を着て、祈りのために定められたお供えをして、祈りの作法に則っていながらも心の中で、余計なことを考えていたならば、祈っていても祈ってはいないと言えます。
逆に祈らなくても祈っていることもあります。
これは姿形の上で祈りの形ではなくても祈っていることもあるものです。
母親が一所懸命に子供のお弁当を作りながら、心を込めてこの子が今日無事でありますようにお祈りしていると、姿形は祈りの形ではありませんが、それはほんとうの祈りになっていると言えます。
坐禅も同じようなもので、姿形は作法通りにきちんと出来ていても中身はいろんな妄想ばかり考えていては坐禅していないことになります。
逆に坐禅という形を取らなくても、その時その時一心不乱に打ち込んでいる人は坐禅をしているとも言えるのです。
坐禅していなくても何か禅の本質に気がついている方もいらっしゃいます。
そんな話をして馬祖禅師の言葉を紹介しました。
私がこの頃、イスの坐禅や寝る禅などを行っているので新しいことを始めているように言われることがあります。
しかし私にしてみれば新しいことではなくて、禅のもっとも古い時代に戻っているという感覚なのです。
馬祖禅師は「もし坐禅を学ぶのであれば、禅というのは坐ることではない。もし坐仏を学ぶのであれば、仏というのは定まった姿をもってはいない。定着することのない法について、取捨選択をしてはならない。そなたがもし坐仏すれば、それは仏を殺すことに他ならない。もし坐るということにとらわれたら、その理法に到達したことにはならないのだ」(『馬祖の語録』)と仰せになっています。
坐禅という形にとらわれたら、仏を殺してしまうというのです。
坐るということにとらわれたら、真理に達することはないのです。
また「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。」とも仰せになっています。
更に「何をあたり前の心というのか。…今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」というのです。
坐っていても、寝ていても道になっているのです。
それから馬祖禅師は「本来有るものが今もあるのだから、修道や坐禅は必要がない。修道もせず坐禅もしない、これが如来清浄禅に他ならない」とも仰せになっています。
坐禅して特別なことを身につけるというものではありません。
本来具わっている素晴らしいものに気がつくのです。
甲野陽紀さんにいろいろ学んできたことも、この本来のはたらきの素晴らしさに気がつくことなのです。
私のあとに甲野さんがお話くださいました。
武術家の甲野善紀先生の子としてお生まれになったのでした。
しかし甲野さんは、お父さんの道を継承することを志してはいなかったそうです。
高校卒業して、進学とは異なる道としてお父様のかばん持ちをしながら身体の世界に触れ、力を使わず相手が動く技や、美しく無理のない達人の動きに出会って、理屈では説明できないが確かに存在する世界に興味を抱いて自分なりの探究を始められました。
お父様は体験を重視していらっしゃるので、あまり言語で説明することをなされませんでした。
そこで見よう見まねで言われた通りにやろうとするとかえって動きがぎこちなくなることも多いということを体験されました。
甲野さんは自身の経験や感覚をもとに独自の理解で技を取り入れた結果、停滞していた身体が大きく変化する体験を得られました。
自分が納得できる形で理解することを大事にされています。
それから「一動作一注意」という甲野さんの提唱される動きについてお話くださいました。
これは対談の冒頭でも私が実験台になって実演してみせました。
両手の指先に注意を向けるだけで体が変わるのです。
横から押されても動かないように安定しているのです。
これは安定させようとがんばるのではないので、一つの動作に注意を向けているだけで体が変わっているのです。
質問はたくさんいただきました。
それをほんの数分の休憩時間に目を通してどれを取り上げるか、どんな順番にするかを考えないといけません。
対談しながらも相手の話を聴きつつ、次はどの質問を選んで、どう展開するか、時間配分はどうするか、一度にたくさんのことをしないといけませんでした。
司会進行を任されているので苦労しました。
実にこの役はかなりたいへんでありました。
終わるとぐったりするほど疲れてしまったのでした。
それでも皆さんはお慶びくださったように見えましたので、ホッとしたのでした。
横田南嶺