無念であれば無念もない
無憶、無念、莫忘の三つであります。
記憶することもなく、念ずることもなく、忘れてはならないと訳されます。
小川隆先生は、分かりやすく、無憶というのは、昔のことを振り返らないということだと説明されていました。
無念は、あらかじめ未来のことを慮ることをしないのです。
そして莫忘は現在に於いてくらまず、あやまらないことです。
心を起こすとそれは妄になります。
心を起こさないと、それは真になるのです。
無相禅師や、その弟子である無住禅師は礼拝したり念仏したりすることをしませんでした。
筑摩書房の『歴代法宝記』(柳田聖山『初期の禅史Ⅱ』筑摩・禅の語録3)には、次の言葉があります。
「道逸がまだ礼挥もしないうちに、何空らは金和上にたずねていう、「天蒼山の無住禪師はぼかんと坐っているたけで、礼拝念仏しようとせず、同宿の人にも礼拝念仏させぬとのこと、何たることでしょう。これが仏法でしょうか。」
このように書かれているので、自分自身が礼拝念仏しないばかりか、人にもさせないというのです。
そのように言われても、
「金和上は何空と道逸らを叱りつける、「君たち、引き退りなさい、わたしが修行時代には、飯すら食う気になれなんだ。ひたすら坐っているばかりで、大小便するてまも惜しかった。君たちは知るまいが、わたしが天谷山(四川名灌県の西南)にいたときは、礼拝念仏しなかった。同学のものはそんなわたしに腹をたてて、みんな山を下りてしまい、誰も食料をはこんでくれぬ。それでも、土をまるめて食とするだけで、山を下りるてまもなく、ひたすら静かに坐っているだけだった。」
というのです。
金和上というのが無住禅師の師である無相禅師のことです。
「孟寺主は、わたしが静かに坐っているというのを皆からきくと、すぐに唐和上にわたしのことを讒言した。」
唐和上というのは、無相禅師の師である処寂禅師のことです。
「唐和上はそれを聞かれて、いよいよお喜びになる。
わたしは天谷山にいて、讒言のことも知らなかったが、ただ唐和上の健康がよろしくないと聞いて、天谷山より資州德純寺にやってきた。
孟寺主はわたしが来るのをみても、寺に入らせぬ。
唐和上はわたしが来たと聞かれて、わたしをお部屋の前に呼びつけられる。
わたしがまだ礼拝もしないのに、唐和上はすぐにおたずねになる、〈そなたは天谷山でどんなことをやっていたか。〉
わたしは答える、〈何事もしません、ぼんやりしていただけです。〉
唐和上は言いかえす、〈そなたはあちらでぼんやり、わたしもこちらでぼんやり。〉
唐和上はごぞんじだが、大衆は見分けがつかぬのた。」
唐和上、金和上、そして無住禅師へと、この「総に作さず、只没に茫たり」という何事もしない、ぼんやりしていただけという宗風が伝わっているのです。
無住禅師の教えに興味が湧いて学んでみました。
こんなことも説かれています。
「一切衆生は本来清浄であり、本来完全である。
上は諸仏より下はあらゆる生物にいたるまで、清浄という本質に変りはない。
人々は一念の妄心のために、たちまち三界に引きこまれる。
人々が念を起こすから、仮りに無念を説くにすぎない。
念を起こすことがなければ、無念すらない。」
というのです。
すべては本来清浄であり、本来円満で、なにもかも具わっていると説かれています。
念を起こすから迷いの世界を作ってしまうのです。
念を起こすから、無念ということを説くのであって、念を起こすことがなければ「無念」という必要もありません
「念がなければ生ずることもないし、念がなければ滅することもない。
念がなければ愛執もないし、念がなければ憎悪することもない。
念がなければ取ることもないし、念がなければ捨てることもない。
念がなければ高ぶることもないし、念がなければ卑下することもない。
念がなければ男の性もないし、念がなければ女の性もない。
念がなければ正しいということもないし、念がなけれぽ間違いということもない。
ずばり無念であれば、無念すらない。」
というのです。
実にこの「無念」ということに徹底しています。
更に「心が起こるから、さまざまの存在が現われ、心が滅すれば、さまざまの存在は消えさる。」
という言葉があります。
この原文は「心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅す」というものです。
この言葉は『臨済録』にも引用されています。
『大乗起信論』にある言葉です。
更に「君の心が燃えあがるように、罪もまた燃えるのであり、無数のものが燃えるのだ。
ずばり無念であるときは、一切の法が仏法にほかならず、菩提(道)を離れたものは一つもない。」
「妄によってものは生じ、妄によってものは滅する。
生じたり滅したりすることを妄というのだ。
妄が滅すれば真といってよく、これを如来の無上菩提と称し、大涅槃とも名づける。」
と説かれています。
「一切の法が仏法にほかならず、菩提(道)を離れたものは一つもない。」という教えは後の馬祖禅師の教えへと連なっていくと感じられます。
それでいてこんな教えも説かれています。
「誰が仏恩に報いる人か、法のままに修行する人だ。
誰が供養を受ける人か、俗事に引かれぬ人だ。
誰が供養を受ける資格をもつ人か、ものにとらわれない人だ。
こんな生き方ができてこそ、天界の食事の供養を受けるにあたいする。」
和上は弟子たちに教えた、
「自分をおさえて他人をおしたてるなら、何ごともすべてなごやかである。
他人をおさえて自分をおしたてるから、さまざまの問題がむらがり起こるのだ。」というのです。
これなどは日常でも役に立つ教えでもあります。
おそらくや、真に無念なるところから、このような自在な教えが湧いてくるのだと思います。
ただ単になにもせずぼーっとしているわけでは決してないのです。
横田南嶺