小正月に思う
修行道場ではお粥に小豆を入れていただくことになっています。
小正月について『広辞苑』には、
「旧暦の正月15日、あるいは正月14日から16日までの称。元日(あるいは元日から7日まで)を大正月というのに対する。今も、さまざまな民俗行事が全国的に残る。」
と解説されています。
小正月は、正月行事の締めくくりであるとも言えます。
五穀豊穣や一年の無病息災をお祈りします。
もともと日本の正月は、年神(としがみ)を迎え、もてなし、送り返す一連の儀礼だと言われます。
小正月はその「送り」の性格が強いようで、正月の「ハレ」から日常の「ケ」へ戻る節目にあたるともいいます。
小豆がゆを食べる習慣のところも多いようです。
暴君について殷の紂王のことを調べていて、伯夷叔斉の話も思い出しました。
美しい女性に溺れて贅沢を尽くして、忠臣の諫言も聴かないという暴君の紂王を討ったのが周の武王でありました。
武王が周の国を築いたのです。
暴君を討ってくれたのですから、良いことなのですが、それに抗議をした人物がいました。
それが伯夷叔斉であります。
『広辞苑』には、
「ともに殷の処士で、孤竹君の子。
伯夷が兄、叔斉が弟。
父の跡を互いに譲り合う。
臣である周の武王が君である殷の紂王を討つのは、道徳に反するといさめたが聞き入れられなかった。
周の食べ物を拒んで首陽山に隠れ、ともに餓死したと伝える。
清廉潔白な人のたとえとする」
と書かれています。
武王は、暴君・紂王を討伐しようとしていましたが、
伯夷と叔斉は、これを正義とは認めませんでした。
家臣が主君を討つのは義ではないというのです。
武王の父である文王が亡くなったあとだったので、父親が亡くなって葬儀もせず、こんな時に戦争をする、これを孝と言えましょうか、家臣の身で主君を殺す、これを仁と言えましょうかといったのでした。
いかに紂王が暴君であっても君臣の秩序を武力で覆すことは天の道に反するという立場でした。
そこで周の国になってもその食べ物を食べずに、首陽山でワラビを食べながら過ごして遂に餓死したというのです。
はじめて漢文でこの話を読んだときには、なにもそこまでしなくてもと思ったものでした。
餓死するまでもないだろうと思ったのでした。
それがある頃から、この伯夷叔斉の話がとても好きになりました。
義を貫いた二人を尊敬するようになりました。
かくありたいとまで思ったものでした。
それからまた長らく年月が経つうちに、そこまですることもないとまた思うようになったものです。
『論語』の中では、伯夷と叔斉は褒められています。
「子曰わく、伯夷叔斉は、舊悪を念わず。怨是(ここ)を用(もっ)て希なり。」という言葉があります。
岩波文庫の『論語』には次のように現代語訳されています。
「先生がいわれた、「伯夷と叔斉とは、〔清廉で惡事をにくんだ人だが〕古い惡事をいつまでも心にとめなかつた。だから怨まれることも少なかつた。」
というのです。
また二人のことを孔子は「古の賢人なり」と称しています。
昔のすぐれた人だというのです。
またこういうことも言われています。
こちらも岩波文庫『論語』にある現代語訳を引用します。
「孔子がいわれた、「詩経(小雅·我行其野篇)には『まこと富みにはよらず、ただ〔富みとは〕異なるものによる。』とある。斉の景公は四頭だての馬車千台を持っていたが、死んだときには、人民はだれもおかげを受けたとほめなかった。伯夷と叔斉とは首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今日までもほめている。〔詩のことばは〕まあこういうことをいうのだろうね。」
というのです。
伯夷叔斉の二人を認めていることが分かります。
それが『荘子』になると異なります。
講談社学術文庫にある『荘子 全訳注』から引用します。
「下男の臧と獲(ともに召し使い)の二人が、一緒に羊の番をしていたが、どちらも羊を逃がしてしまつた。
臧に何をしていたのかと問いただすと、巻物を抱えて読書に耽っていましたと答えた。
獲に何をしていたのかと問いただすと、博打に興じていて夢中でしたと答えたという。二人のやっていたことはなるほど同じではないが、羊を逃がしてしまった点では、全く同じである。
伯夷(殷代末期の清廉な隠者)は名誉を守ろうとして首陽山(山の名)の麓で餓死し、盗跖(古代の伝說的な盗賊)は財利を貪ろうとして東陵山(山の名)の上で野垂れ死にした。二人の死んだわけは確かに同じではないが、生命を痛めつけ自然な本性を傷つけた点では、全く同じである。それをどうして、伯夷は善人、盗跖は悪人、などと決めつけられようか。」
というのです。
「生を残(そこな)い、性を傷つける」のは同じだといったのでした。
「滄浪の水清まば、以て吾が纓を濯うべし。滄浪の水濁らば、
以て吾が足を濯うべし。」という『楚辞』の言葉もあります。
「滄浪の川の水が澄んでいるなら、それで私の冠のひもを洗おう。滄浪の川の水が濁っているなら、それで私の足を洗おう。」
という意味です。
水が清いとは世が正しいことです。
そういう世なら、高い理想や清廉さを保ち、官に仕える、水が濁っている即ち世が乱れているなら、無理に潔白を主張せず、身を低くして生き延びるというのです。
屈原は、漁夫のこの言葉をよしとせずに身を投げて亡くなったのでした。
『従容録』の第十二則の頌には、
「機を忘じ帰り去って魚鳥に同じうす。足を洗う滄浪煙水の秋。」という句があります。
大雄山の余語翠厳老師は、『従容録 上巻』(地湧社)のなかで、
「自己の才覚によっていろんなことをする働きを忘れ、天地の中に生きて在るお互いのことをよく分かれば、魚鳥と同じように自己の才覚など忘れてしまう」
「どうにでも融通無碍に生きていくことができるのにも拘わらず、何かにとらわれて動きがとれないわけです。
固い信念というものは誉められることですが、全きものはないのだから、ざあーっと生きていきなされ。」と説いてくださっています。
この頃はこんな生き方にも心惹かれるのであります。
横田南嶺