自我はない
私は次の言葉が印象に残りました。
「わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に《我(実体的自己)》はないと思い、それらに迷ってはならない。
そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。
わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。」
という言葉です。
実にここに説かれている「わが心を観ては、その中に《我(実体的自己)》はないと思い、それらに迷ってはならない。
そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。」
というところは仏教の核心であるといっていいと思います。
輪読していて気がついたのですが、私が持っている『仏教聖典』と修行僧達が持っているのとでは中身が違っているということです。
確認してみると、修行僧達は、令和六年に改訂新版が出されていて、その第三刷を持っているのでした。
私はその改訂の前の版だったのです。
ここのところも改訂版には、「我はない」のところの「我」に「実体的自己」と付け加えられているのです。
我は無いというのはどういうことなのか、どうして我によって苦しむのか、考えてみます。
朝比奈宗源老師の『獅子吼』という本に次のように説かれています。
「自我のことを佛教では、始めを知らない迷いという通り、自我はとても根深い。煮ても焼いても喰えない。始末の惡いものですが、本当は実体はないもので、佛心の上にわくガスか泡のようなもの、これをのりこえますと、自我が後退した分だけお互いの心は広くなり、明るくなり、豊かになります。それは佛心の德として当然であります。」
と説かれています。
「始めを知らない迷い」というのは「無明」のことだと察します。
ここに自我は実体がないとはっきりと説かれています。
ガスのようなもの、泡のようなものという譬えで表されています。
いろんな譬えがあります。
蜃気楼のようなものであるとか、夢のようなものであるとか、幻のようなものであるとか説かれています。
更に朝比奈老師は、
「人間を苦しめたり、迷わせたりするものに、財産·権力·名誉等の欲望がありますが、そのもとは自我です。
自我が本当にあると思うから、わがものという所有欲が出ます。
自我が仮のものとわかれば、所有も仮りのもの、所有ではなくて、一時管理しているだけとなります。」
と説いてくださっています。
自我は仮のものというのは、実体がないということです。
自分のものと思い込んでいるだけで、実は仮にお預かりしているだけのものなのです。
この体でもそうなのです。
お預かりしているだけなのです。
更に「よく金持ちなどに、金はあの世までもっていけるものでなし、などという人があります。それは人によって、口先だけのこともありましょうが、その言葉は真理です。
本当にそうした心境になれば、その人は相当金や欲から解脱した人です、
そこで私の言いたいのは、自我という皮が一皮むければ一皮だけ、二皮むければ二皮、人間がゆたかになり、人と人とも、国と国とも仲よくなれるということです。
大死一番をなしくずしにやるといってもよい。小刻ざみに自我を越えるのです。」
自我が完全に消えた状態を涅槃と言います。
なかなか私たちはその涅槃の境地に達することは困難です。
しかし朝比奈老師は、この自我の皮が一皮一皮むければいいのだと説いてくださっているのです。
小刻みに自我を超えるというのは有り難い表現です。
そして自我が減る分、世界が広がり、人間が豊かになるというのです。
自我が減ると寂しくなるのではないのです。
豊かになるのです。
更に
「坐禅をする場合、一寸(いっすん)坐われば一寸の佛といいます。この一寸というのはむかし時間を計った線香一寸のことで、今の時計でいえば、十分坐われば、その十分間は佛だという意味になりましょう。
お互いも、家庭でも社会でも、この自我を越える工夫が大切です」
と説いてくださっています。
禅の修行では一超直入如来地といって、いっぺんに自我を滅却して、もっといえば自我が本来無いと見極めて、如来の境地に到ると説くのですが、同時に「一寸坐れば一寸の仏」という言い方もしています。
こう言ってくださると毎日少しでも坐禅をすることに大いに意味があると分かります。
坐禅に対する意欲が俄然湧いてくるものです。
朝比奈老師は、
「大抵の争いごとも、あるいは独りで苦しむ煩悶も、つきつめればすべて自我に囚われるからです。
それと、もっと困ることは、自我に囚われると物事の正しい姿がわからないことで、それがため本人は、自分をも、社会をも幸福にするつもりで、却って不幸にする場合があります。」
と説いてくれています。
自我にとらわれるから苦しむのです。
自我にとらわれるから自分中心にしか物事が見えないのです。
相手の立場が分からなくなります。
自分の行動がまわりにどんな影響を与えるのかも分からなくなってしまいます。
更に「徒らに局部的な利害に眼がくらんで、国家を亡ぽしたわが国の過去も、その一例です。
私は人類の幸福のため、戦争のない世界を実現するため、世界連邦を理想としているものですが、これの実現を防げているものは、個人の生活における自我と同様に、民族の我、国家の我、イデオロギーの我だと思います。
世界の宗教は殆んどすベて、人間の自我が迷いの本であることを教えますが、その宗教にすら、自分の教えでなければ人類は救われないという宗教があります。
佛教あたりの広い立場からすれば、これも迷信の一つです。
宇宙時代が来たといわれましても、人類は地球以外に住むところは、まだ当分ありますまい。
仲よく共存共栄するには、どうしても個人を苦しめ、不安にする張本人であり、諸民族を争わせる元兇である人間の自我をコントロールする必要があります。」
と説いてくださっています。
朝比奈老師はかつて世界連邦の運動にも賛同されていたのでした。
人と人との諍いから国と国との争いまで、そのもとは人間の自我なのです。
自我が苦しみの原因であるとまず見極めて、その自我は本来無いもの、実体のないものだと観ることが大事なのです。
そうして自我に振り回されず正しく道理を観て、お互いに相依相関の関係にあると知ることです。
そうすれば相手を思いやることもできます。
横田南嶺