どこでも自在になれたら
という言葉が目にとまりました。
目にしながら、『臨済録』にもある言葉だと思いました。
岩波文庫の『臨済録』の入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「問い、「その四種の変化の形なき世界とはどういうものですか。」
師は言った、「君たちの一念の疑いは、〔四大のうちの〕地に妨げられて生まれたもの。
君たちの一念の愛欲は、水に浸みこまれて生まれたの。
君たちの一念の瞋は、火に焼かれて生まれたの。
君たちの一念の喜びは、風に吹き上げられて生まれたものだ。
もしこのように会得できたら、外境に振りまわされず、どこででもこちらが外境を使いこなし、東に現れ出て西に沈み、南に現れ出て北に沈み、中央に現れ出て端に沈み、端に現れ出て中央に沈み、また水上を地上のように歩き、地上を水上のように歩けるようになる。
なぜそうなるかといえば、四大は夢や幻のように無実体だと体得しているからだ。
諸君、今こうして君たちが説法を聴いているのは、君たちの四大がそうしているのではない。
〔君たちその人が〕自らの四大を使いこなしているのだ。
もしこのように見究め得たならば、死ぬも生きるも自在である。」
というところです。
この中の
「東に現れ出て西に沈み、南に現れ出て北に沈み、中央に現れ出て端に沈み、端に現れ出て中央に沈み」
というのが、「東涌西沒。南涌北沒。中涌邊沒。邊涌中沒。」
の現代語訳です。
註釈には、「仏が説法するとき大地が感動して盛り上がったり陥没したりして摇れ動くという奇瑞。
しかしここでは、地面から躍り出たり、また地中へ没したりする神通力の発揮をいう。」
と書かれています。
華厳経には「世界六種震動。東涌西沒。西涌東沒。南涌北沒。北涌南沒。邊涌中沒。中涌邊沒」と書かれていて、仏様が説法なされる時に世界が六種に震動したと説かれています。
『臨済録』では四種無相の境について四大が説かれています。
四大は岩波書店の『仏教辞典』には
「広大な範囲で万物の依り所となる四つの実在の意で、<四大種>ともいう。
物質を作り上げる地・水・火・風の4元素のこと。
それぞれの本質と作用として、
<地>には固さと保持、
<水>には湿潤と収集、
<火>には熱さと熟成、
<風>には動きと生長が充(あ)てられる。
説一切有部の教学では、いずれも十二処のうちの触処(そくしょ)に含まれる。
人の身体もこの四大から成り、病気はそれらの調和が崩れたときに起るとみなされるので、病気の状態のことを<四大不調>という。」
と解説されています。
四大の地は「硬い・重い・支える」という性質があります。
人間の体でいうと骨や歯などの骨格や、筋肉のなどの総合組織をいいます。
水は「湿る・流れる」という性質があります。
人間の体でいうと血液・リンパなどの体液です。
唾液や汗などの分泌液も入ります。
火は「温める・成熟・変化」という性質があります。
人間の体では消化や代謝や体温維持が関わります。
風は「動く・巡る・押す」という性質があります。
人間の体では、 運動や呼吸などがそうです。
地大は「私の体」という実体感の土台になります。
水大は地大を結び、循環させる要素であり、感情面では「執着」「愛着」にも喩えられます。
火大は「熱・変化」を生む要素で生命活動を進めるエネルギーです。
火大が弱れば冷え・消化不良となり、強すぎれば炎症となります。
風大は「動き・はたらき」の要素で、呼吸や血流に神経伝達などです。
生きていることそのもので風大が止まると、生命は終わります。
ここで大事なのは四大は「部品」ではなく「性質」を表していることです。
仏教では、お互いの身体を、この地水火風の四つの要素が仮に集合したものとみて、「私」「自分の体」という執着から解放されるように修行します。
四つの構成要素である四大は常に変化し、「固定した自己」は見いだせないと観るのです。
今でもお寺の世界では、病気になることを「四大不調」と表現しています。
『臨済録』では
「一念の疑いは、地に妨げられて生まれたもの。
一念の愛欲は、水に浸みこまれて生まれたの。
一念の瞋は、火に焼かれて生まれたの。
一念の喜びは、風に吹き上げられて生まれたもの」とみるのです。
山田無文老師は、最初の疑に「にすい」をつけると「凝る」という字になり、「やまいだれ」をつけると、おろかという意味の「癡」になるとして、「何かの問題に頭をつっ込んで、それにとりこになることが、心が地に支配されるという」のだと説かれています。
愛欲におぼれるのは水に支配されているのであり、怒りに支配されるのは火に支配されていて、楽しいことに浮かれているのは風に支配されているのです。
そのように観ることができれば、客観の世界に迷わされることはないのです。
ここにも仏教的な解脱の教えが説かれています。
どのようにして迷いが起きるのか、その構造や成り立ちを理解することが大事なのです。
冷静に智慧の眼で観察できれば、そこから離れられるのです。
そうすると今度は、この客観の世界に自由自在に身を現していけるのです。
その自由自在なることを「東涌西沒。南涌北沒。中涌邊沒。邊涌中沒」と表現しています。
どこでも自在に出没できればいいのですが、まだまだこだわりがあり執着がとれないのも現実であります。
大般若経の一節から臨済録を思ったのでした。
横田南嶺