なりきる修行
転読の方法については宗派によって様々あります。
臨済宗ではどのようにするのか『江湖方式梵唄抄』(禅文化研究所)によれば、
「大声で「大般若波羅蜜多経卷第000大唐三蔵法師玄奘奉詔訳」と唱え、初中後三ケ所をそれぞれ七、五、三行ずつ読んだ後、扇を啓くように翻転読する(その際、後に記すような陀羅尼を暗誦する)。
通常右ヘ三回、左へ三回、前へ一回と都合七転する。
但し人員少なく分担が多いときは、略して一卷三転にとどめてもよい。
転読し終われば大声に「降伏一切大魔最勝成就」と唱える。
一卷ずつこれを反復する。
導師が理趣分を読み終わって鈴を振れば、一斉に「大般若波羅蜜多経」と大声で唱える」
と書かれています。
これを読むと、本来は、初めと中頃と、終わりの方で七行五行三行ずつ読むとあります。
これは実に丁寧な方法であります。
経題を読んでそのあとはすぐにパラパラ転読することが多いように思います。
飜転読とありますのは、『仏教辞典』に書かれている「折本(おりほん)を空中で翻転する華やかな形式」であります。
転読中に読む陀羅尼というのにもいろいろ伝えられているようです。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」
という般若心経の終わりにある呪を唱えることが多いように思います。
内空。外空。内外空。空空。大空。勝義空。有爲空。無爲空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空。
という二十空を唱えるのだと教わったこともあります。
円覚寺に来ては前管長の足立大進老師からは、
「諸法皆是因縁生
因縁生故無自性
無自性故無去来
無去来故無所得
無所得故畢竟空
畢竟空故是名般若波羅蜜」
という偈文を唱えるのだと教わりました。
意訳しますと、
すべての存在は、皆様々な原因や条件によって起こるものである。
条件によって生じるので、それ自体変わることのない自性というものはない。
自性がないので、去るとか来るということもない。
去ることも来ることもないので何かを得るということもない。
何も得るものもないので、結局は空というほかない。
結局空なのでこれを般若波羅蜜―智慧の完成―と名づける。
というところです。
これは般若経の大事な教えを凝縮しています。
二十空ということも大般若経に説かれているのですが、この空ということほど難しいものはありません。
「現代語訳 大乗仏典1『般若経典』中村元 東京書籍」には「空」について次のように解説されています。
「ところで、この空は実践的にはどういう意味があるのでしょうか。あらゆるものに本体がない、実体がないというのでは、すべてを否定することになります。それは虚無論者(ニヒリスト)になるのではないでしょうか。こういう非難がすでに古代インドにもありました。空論者は虚無論者であると非難されたのです。
これにたいして、中観派の書は次のように答えています。あるいは、大乗仏教一般がいうことです。
「空の教義は虚無論を説くのではない。そうではなくて、空はあらゆるものを成立せしめる原理である。それは究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものである。もろもろの倫理的価値を成立させる真の基底である」。
空のなかにはなにもありません。であるからこそ、あらゆるものがそのなかから現れてくるのです。たとえていうなら鏡のようなものです。鏡のなかにはなにものも存在しません。だからこそ、あらゆるものを映し出すことが可能なのです(そこで「大円鏡智」という表現が成立します)。
空は、すべてを包容します。それに対立するものがありません。空というものは、なにもないことであると同時に、存在の充実です。あらゆる現象を成立せしめる基底です。それは生きている空です。あらゆる形がそのなかから出てきます。そこで、空を体得した人は生命と力に満たされて、いっさいの生きとし生けるものにたいする慈悲をいだくことになります。」
と書かれています。
対立するものがないというのです。
そのあたりについては片岡仁志先生の『禅と教育』には次のように説かれています。
「絶対無の自覚というものが、有のもとです。絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。感情移入というような心理学的な説明の仕方もあるでしょうけれども、その事柄それ自体は、そういう説明よりもっともとになるものです。感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。
その繋がりが、実際は愛というものの根本です。われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。」
とは実に体験に基づいた明解な解説であります。
空を実体験するために、禅の修行では「なりきる」ということを大事にしています。
我を捨ててそのものになりきるのです。
坐禅しているときなら呼吸そのものになりきる。
掃除しているときには掃除になりきる。
あるいか箒そのものになりきって掃除をします。
そうして、我を捨てて空を体得するのです。
片岡先生が「すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えない」というように花を見ると花になりきるのです。
転読もまたなりきって行うのです。
そんな修行を何年も重ねるのであります。
横田南嶺