坐禅せずに坐禅してみよ
身体技法研究者の甲野陽紀さんとの対談本であります。
甲野陽紀さんは、この本の著者の紹介には、
「1986年、東京都生まれ。身体技法研究者。武術研究者・甲野善紀氏の助手、舞台づくりの仕事などを経て、身体の動きを独自の観点から読み解く研究を始める。身体は「内と外の環境を反映させる写し鏡のようなもの」と捉える身体観から生まれるユニークな甲野陽紀流身体技法は、「誰もができる」「一瞬にして変わる」そして「応用範囲の広い」メソッドとして分野を問わず多くのファンを持つ。 」
と書かれています。
私よりも二十二歳お若い方でいらっしゃいます。
来年で四十歳となられます。
甲野善紀先生のご子息であります。
甲野善紀先生に教わった折に、とてもご子息のことを褒めていらっしゃって、私もどういう方なのか興味を持ったのでした。
直接甲野善紀先生に教わるのは、恐れ多い気がして、ご子息に教わってみようと思ったのでした。
そのあたりのことについて、甲野さんがまえがきに書いてくれています。
一部を引用させてもらいます。
「円覚寺にて横田南嶺管長に初めてお会いしたのは2023年の夏のことです。修行寺でもある円覚寺に修行僧向けの講座に呼ばれてのことでした。
お会いする前は、なぜ禅僧の方から、それも宗派を代表される立場の方から、身体技法の研究をしている私に声がかかったのか不思議に思い、嬉しいような緊張するような気持ちになったことを昨日のことのように思い出します。
実際に講座が始まってみると、修行僧向けと聞いていた場に每回欠かさず横田管長も参加されます。
そして、每回講座が終わると翌日にまず修行僧の方々の原稿用紙にまとめた感想が私のメールボックスに届けられ、(なるほど、ここまで含めて修行僧の方々の勉強なのだろうな)と感心していると、およそ一週間後、講座の樣子が円覚寺HP内に設けられた管長の日記にとてもわかりやすくまとめられて公開されるのです。
そのブログを読むことは、それから私の楽しみの一つになったのですが、それにしても、管長としての超多忙な日々の中で、3時間ほどにわたる講座の内容をさっと把握し、翌日にはご自身の感想とともに文章にまとめられることには驚かされました。
もちろん、管長の日記にはそれだけではなく、ほぼ毎日、新しい話題が読み応えある文章とともに紹介されるのです。
禅の先人の言葉や逸話から、人や言葉との出会い、印象に残った出来事まで、内容は多岐にわたります。
まさに底なしの好奇心と、ご自身が体感した経験值をもとに積み上げていく研究心、その両者を併せ持つ探求者、それが横田南嶺管長なのだな、という思いはお会いするごとに強くなり、それは今でも変わることなく私の中に残っています。」
かなり褒めすぎで恐れ入るのですが、たしかに好奇心と研究心だけは持ち合わせていると思っています。
そんな次第で勉強させてもらってきたのでした。
甲野さんから学びたいと思ったのは、達人の技をどう表現して伝えるのかということです。
甲野善紀先生のご子息であり、おそばで学ばれてきた方ですから、その技などを間近でご覧になっています。
しかし甲野善紀先生はあまり細かな説明はなされません。
達人というのはそういうものだと思います。
そこを甲野陽紀さんは独自の表現で分かりやすく伝えてくれるのです。
もっとも表現して伝えればいいというわけでもありませんが、今のお若い人たちに接している私としては、ある程度理解して関心を持ってもらわないことには、修行にも身が入らないだろうと思うのです。
楽しみ学びながら、そこから関心をもって深めてゆくようになりたいと願います。
興味関心をもってくれればあとは自分で掘り下げてゆくようになると思うのです。
本のあとがきは私が担当しました。
『坐禅せずに坐禅してみよ!と問われたら』という題名ですので、その答えを簡潔に記しておきまました。
こちらもあとがきから引用します。
「『坐禅せずに坐禅してみよ!と問われたら』という奇妙な題名の書物です。この題名に惹かれて本を手に取ったという方もいらっしゃるかもしれません。こんな訳の分からぬような問いをまさに「禅問答」のようだと言われるのかもしれません。
でも、もしも「坐禅せずに坐禅してみよ!」と言われたら、その答えは簡単なのです。
ただスッと坐るだけなのです。
そして終わればサッと立ち上がって去るだけです。
それだけです。
それだけのことを言葉でいろいろ説明するとなるとたいへんなことになります。いくら言葉を費やしても足りません。あげくの果てにとうとうこんな一冊の本にまでなってしまったのでした。」
ということなのです。
簡単な文章ですが、私が言いたいことはこれに尽きます。
あれやこれやと考えずに、スッと坐る、それだけです。
しかし、禅というのは坐っていればいいとか、長く坐り続けることだなどと思い込むのはまたよくないと思うので、終わればサッと立ち上がって去るのです。
なんのあとかたも残しません。
坐ったということも忘れて次のことをしているのです。
内容については、本書を手にとってもらうのが一番ですが、目次だけを記しておきます。
はじめに甲野陽紀
1「学びの方法~山頂への道は一つなのか?」の卷
[座談篇]
求めればそれはやってくる
[稽古場篇]
風船はなぜ膨らむのか?
2「修行とはなんぞや?」の卷
[座談篇]
そこで人は「生きもの」としての原点を思い出す
[稽古場篇]
「坐る」という姿勢について考えてみた
3「坐禅せずに坐禅してみよ、と問われたら?」の卷
[座談篇]
自分というものはどこまで広がるのか
[稽古場篇]
「每日のこと」に身体はゆっくり学んでいく
4「人は菩薩になれるのか?」の卷
[座談篇]
「私」は「あなた」ではないけれども
[稽古場篇]
それはもしかしたら「菩薩」への道?
5「昨日までの自分が否定される喜ぴ、とは?」の卷
[座談篇]
「未だかつてない私」こそ見たいもの
[稽古場篇]
「皮」を制すものは身体を制す?
番外篇・おまけの鼎談
橫田南嶺 さかいりょうへい 甲野陽紀
「管長、坐禅って楽しいですか?」の卷
対談を終えて横田南嶺
来年の一月十七日に円覚寺で出版記念の対談を行う予定であります。
横田南嶺