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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.27
今日の言葉

苦しみと楽しみは半々

先日の日曜日は、午前中にラジオ生放送に出演していました。

今年最後の放送であります。

毎月一回出演させてもらってきましたのが、もう話をすることも無くなりましたので、一度これで終わりにしてもらって、来年は第五日曜日のある時だけ出させてもらうようにしました。

人それぞれの世界があると、昨日そんな話をしましたが、それぞれの世界があるものです。

私達のように伝統のお寺を守り、修行していく世界と、放送や報道、芸能に携わる方とでは世界が異なります。

伝統の世界では、尊崇するものを大事にしている世界であります。

私たちの世界では、目上の方の名前を呼ぶのを遠慮して避ける習慣があります。

これは中国からの長い伝統であります。

今でもそれが残っているのが御皇室であります。

御皇室の方の実名を呼ぶことはしません。

しかし報道の世界では、御皇室を除けばそんなことをしません。

みな実名で「さん付け」であります。

私個人としては何と呼ばれようと一向にかまいませんが、教団や組織という世界ではその尊崇するものを大事にして成り立っている世界なので、困るのであります。

私などでもよその大本山の管長を「何々さん」と呼ぶことは決してしません。

それは失礼にあたるからであります。

そしてそれはその本山に対しても礼を失した行為であると思っているのです。

私達の世界で尊崇するものを大事にするのですが、その尊崇するものを敢えておとしめる世界とでは異なるのであります。

そんな次第で伝統の世界と合わないことが多くあります。

そんなことまで言わなくてもいいのにとこちらが思うようなことを、どしどし言って人前で公表したいというのが報道の方の思いであります。

報道というのはそんなものだと思っています。

もっとも先方はそういう世界で活躍されてきた方ですので、悪気もなにもなく当たり前の感覚なのであります。

そういう方と過ごすということは、こちらが耐えるしかないのであります。

一年間にわたって、我ながらよく耐えてきたと思っています。

この世に生きることは苦しみに耐えることであると仏教では教えますので、苦しみに耐える修行と思っての放送であります。

苦しみから逃れたいと思うのですが、もう少し苦しめということで第五日曜に出るのであります。

その生放送では挨拶について触れました。

挨拶はもともと仏教の言葉であります。

禅語といっていいでしょう。

『広辞苑』を調べてみても

一番に仏教語として「禅家で、問答を交わして相手の悟りの深浅を試みること」と解説されています。

二番目に「うけこたえ。応答。返事」という意味です。「何の挨拶もない」という場合です。

それから「人に会ったり別れたりするとき、儀礼的に取り交わす言葉や動作」です。「朝の挨拶」などがそうです。

それから「儀式・会合などで、祝意や謝意、親愛の気持、あるいは告示などを述べること」で「開会の挨拶」などいう場合です。

それから「御挨拶」というと「相手の挑発的な、礼を失したような言動を皮肉っていう語」としても使われます。

『禅学大辞典』には

「挨は積極的に迫ってゆくこと、拶は切り込んでいくこと」

「修行者が師家に問題を持ちかけて答えを求めること」「師家が僧と問答して、その力量をはかること」という意味が書かれています。

もともとは禅の修行における問答でありました。

挨拶の「挨」は近づく・押す・迫るの意であり、「拶」は迫る・問い詰めるの意味です。

そこで 「挨拶」は相手に迫り、応答を引き出すことを言います。

師が弟子の悟りの深浅を試すための鋭い問いや応答を指しました。

もともと「挨拶」は、単なる礼儀ではなく、相手の真実に迫る行為でありました。

鎌倉時代に禅が日本に伝わりました。

そこで挨拶という言葉も使われるようになったかと察します。

まだその頃「挨拶」は相手の力量・考え・立場を確かめるやりとりを意味していました。

武家社会では、初対面での言葉遣いや立ち居振る舞いなどが「挨拶」の中に含まれていたと察します。

江戸時代になると挨拶も儀礼化し日常化してきました。

江戸時代には社会が安定し、挨拶も相手を試すという意味合いから、定型的な言葉であり、礼節としての表現になってきました。

円滑な人間関係の潤滑油へ転換してきたようです。

そして現代日本語における「挨拶」は、出会いや別れの定型句であり、その場の空気を整える言葉として用いられています。

挨拶の言葉も決まったものが多く、相手の心に迫るという本来の意味は意識されなくなっています。

それでもやはり本来の意味がまだ残っているともいえます。

「きちんと挨拶できる人」というのは、その人の人となりが現れると見られます。

挨拶の仕方で相手の様子が分かるということもあります。

挨拶ひとつでその場の空気が変わることもあるものです。

そんな次第で挨拶は、禅の世界で相手の心境を試す鋭い応答でありましたが、中世では、相手の力量を測る緊張ある対面を指す言葉であり、江戸時代になると、礼儀・儀礼として定型化しました。

そして現代では社会的マナーや人間関係の潤滑油に用いられていると言えるのです。

そんな話をして放送を終えるとすぐにおいとまして円覚寺に帰り午後からは第四回の寝る禅であります。

九十分ゆっくりと寝る禅の指導をしていました。

こちらは身も心もすっかり安らぎます。

上虚下実が実感されます。

放送の世界で耐えてきた午前中と、寺でゆったりと寝る禅と、まさしく苦しみと楽しみは半々で成り立っていると思った一日でありました。

 
横田南嶺

苦しみと楽しみは半々

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