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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.26
今日の言葉

人それぞれの世界

先日はとあるラジオ番組の収録を依頼されました。

それがこの年末に収録してお正月に放送するというのです。

話をしているのは正月のようにしてほしいというのです。

これはとても難しいご依頼であります。

まずスタジオについて、これはあらかじめ収録したものだということを皆さんに伝えて行うのですかとうかがいました。

どうしようかと迷っていますというので、それはあらかじめ収録したものだと伝えた方がよろしいと思いますと申し上げました。

その放送する日が、もしも雪でも降ったらどうでしょうか。

今日は雪ですねと雪の話題に触れないと不自然になります。

あるいは、あってほしくはありませんが、もし放送の前に災害でもあったなら、そのことに言及しないのもおかしなことになります。

何事もなければ、黙っていてそのまま放送することもできるでしょうが、何が起こるのか分からないのがこの世の中です。

そのように申し上げたのでした。

その日、私は正月の放送で、正月のように話をするというので、正月用の法衣をタンスから出して着てゆきました。

いつもよりは少々ハデな衣装であります。

ラジオですから姿は見えないのですが、やはり衣装から正月にしないとと思ったのでした。

ところがスタジオに着くと皆さん全くの普段着のままでいらっしゃいました。

こういう放送や報道、芸能に関わるような方にとって年末に収録して正月に放送するようなことはよくあることで、じゅうぶんに慣れていらっしゃるのだと分かりました。

わざわざ正月の衣装で臨んだ私が恥ずかしくなりました。

それでもこれが逆でなくて良かったと思いました。

もしもその収録で皆が正月の衣装にそろえていて、一人誰かが普段着で来たとすると、その普段着の方に恥ずかしい思いをさせてしまいます。

人に恥ずかしい思いをさせるよりは、自分が恥ずかしい思いをする方がいいものです。

こういうことを体験すると、人にはそれぞれ住む世界があるのだと思いました。

仏教では、一人一人はそれぞれの世界を生きているとみています。

仏教に唯識という教えがあります。

平たくいうと、すべては心のはたらきであるという教えです。

世界というのは、なにか客観的に固定されたものがあるように感じますが、そうではないのです。

それぞれの心の受け取り方によって、それぞれに立ち現れていると説くのです。

たとえば同じ出来事でも、それが苦しみとなって苦しみの世界になる人もいますし、有り難いと受けとめると感謝と学びの世界になることもあります。

そこで人の数だけ、世界の姿があるというのです。

同じ世界にしようと強制することはないというのが仏教の考えなのです。

このように理解しておくと人間関係が円滑に行くように感じます。

とある方から演劇の鑑賞を誘われたことがあります。

私は演劇には興味も関心もないのです。

今もありませんし、これからもありません。

丁重にお断りしているつもりが、何度も勧められます。

水の中に住む魚が山に登らないようなものですと申し上げたのですが、通じなかったようです。

人はそれぞれ住む世界があるので、こちらがいいと思ったからといってあまり強要するのはいかがかと思います。

そっとしておくのがよいと考えるのが仏教的な見方であります。

その次の日は、これまたとある企画の取材を受けていました。

それがなんと達人の研究をしているというのです。

「質的研究により達人の構造を明らかにする』 というテーマだそうです。

各分野の見識者、達人の方々にインタビューするというのです。

これなども私は達人では全くありません。

お断りするのが本来ですが、ご縁のある方を通してのご依頼でしたので、お引き受けしたのでした。

まずはじめに自分自身が全く達人ではないと申し上げておきました。

それから達人について自分が思うことを申し上げました。

私は長年禅の修行だけをしてきています。

禅の修行は何か特別な能力を身につけるような教えではありません。

土台私は何かの達人になるということに興味はありません。

なにか特別ことをして身につけるものがあったとしても、それは多くやがて失われるものです。

どんな達人の技術を身につけても、病気になったり怪我をしたり、やがて年を取って衰えると失われることがあります。

私が幼い頃から関心をもってずっと禅の世界に求めてきたことは死の問題だけです。

いろんなことを身につけても死はすべてを奪い去るのです。

修行して到り得たところでは、禅は達人になる教えではなく、人はみな達人であると気がつく教えだと申し上げました。

これは禅が仏になることを目指すという従来の仏教の考えから、すでに仏であることに気がつく教えへと転換したことに基づいています。

仏を達人に言い換えたのです。

取材された方から「私たちが何の達人でしょうか」と聞かれましたので、「今呼吸をしていますか」と聴きました。

していますと答えるので、それが達人ですと申し上げました。

二本の足で立っている、二足歩行をしている、呼吸をしている、心臓が鼓動している、腎臓がはたらいてくれている、どれも達人の技であります。

もしそれぞれの働きを、機械を作ってそれで代用しようとするとどうでしょうか。

人工呼吸器を着けるとたいへんな技術と費用がかかります。

透析の機械を着けるのもたいへんな技術と費用がかかります。

人工心臓を着けるのもたいへんです。

それらをすべて同時にこの小さな体の上でなんの支障もなく行っているのは実に達人の技としか言いようがありません。

生きていることだけで達人ですとはじめに申し上げて、そのことについて、九十分ほどあれこれとお話しました。

達人についての私の見解をじゅうぶん伝えたと思って話を終えました。

そうしましたら最後に質問がありますと言われて、なんでしょうかとうかがうと、どういう人が達人と思われますかという問いでありました。

そのことについて九十分話したつもりでしたが、その方には全く伝わっていなかったと分かりました。

私は伝えたつもりという世界にいて、その方は全く分からない話を聴かされていたという世界に住んでいたのだと分かりました。

人それぞれの住む世界があるとこれも改めて認識にしたのでした。

 
横田南嶺

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