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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.22
今日の言葉

三句

毎月の麟祥院での勉強会では、小川隆先生に大慧禅師の『宗門武庫』を講義してもらっています。

そのあと私が『臨済録』の一節を解説しています。

私は臨済禅師が達磨大師のお墓にお参りしたという短い一節を取り上げました。

あえて短い一節にしようと思ったのは、小川先生が講義なされるところが、とても難解な箇所だったので、あまり詰め込まない方がよいかと思ったからでした。

臨済禅師が達磨大師のお墓にお参りに行かれて、そこのお墓をお守りしているお坊さんから、まず仏様を礼拝しますか、それとも達磨大師にお参りしますかと問われました。

臨済禅師は仏様も祖師も俱に礼拝しないと答えます。

そこでそのお坊さんが、仏様と祖師とは、あなたとどんな仇敵の仲なのですかと言います。

臨済禅師は袖打ち払って出ていったという話です。

これを本分と現成の問題から論じてみたのでした。

本分と現成、本来性と現実態とも言います。

本分の世界では、仏も我も隔てのない世界です。

一如の世界ですから何も拝むことはないのです。

一体なのです。

しかし現実態ではやはり恭しく仏像であってもそこに仏様がいますが如くに礼拝するのです。

この本来性と現実態の兼ね合いが大事です。

臨済禅師は黄檗禅師のもとで本来性に目覚めました。

外に求めるものはなにもないと確信されました。

しかしながら現実では鍬を持って畑を耕さないといけませんし、経典も読まなければなりません。

行録の部分で悟った後の臨済禅師は黄檗禅師から悟りに安住するのではなく現実態を綿綿密密に行じて生きることを教えられるのです。

それがあたかも黒豆を食らうかのように経典をじっくり読んでいた黄檗禅師なのでした。

臨済禅師はまだ本来性に気がついていない者にはその本来性を直指しようとされます。

それが仏に逢うては仏を殺すというような激しい言葉にもなっています。

しかし現実態もおろそかにはしていないので、やはり祖師のお墓にお参りしようとして訪ねているのです。

ところがお参りしようとしたら、そこのお坊さんが本来性に目覚めていないことに気がついたのでした。

仏様を先に拝みますか祖師を先にしますかという問いで臨済禅師は気がつかれました。

いや臨済禅師ならば、そう言われる前にその風貌、たたずまいで気がつかれていたと察します。

それなので、仏も祖師も礼拝しないという本来のところを直指されたのでした。

禅は本来性の自覚を大事にしますが、自覚したら、本来性に安住することも嫌います。

本来性に安住せずに平々凡々とお経を読み畑を耕し、仏様を恭しく礼拝するのです。

そんな話をしたのでした。

その前に小川先生の講義されたところは難しいのでした。

一部小川先生の現代語訳を引用させてもらいます。

「仏眼清遠禅師が、五祖法演禅師の下にいた時のこと。圜悟克勤が臨済禅師のことばを取り上げた。

「一句めで悟れば仏祖の師となれる。二句めで悟れば人天の師となれる。三句めで悟るのでは、我が身ひとつも救い得ない」。

ある日、仏眼が、だしぬけに圜悟に言った。

「くだんの三句をおぬしに示そう」。

言いながら、指を折り、「これが二句め。三句めは、とうに言うた」。

そして、さっさと立ち去った。圜悟がこの一件を五祖に話すと、五祖は言った。「悪うないの」。」

というのです。

これだけ読んでも何を言わんとしているのか分かりません。

臨済禅師が説かれた三句ということが問題になっているのです。

「一句めで悟れば仏祖の師となれる。二句めで悟れば人天の師となれる。三句めで悟るのでは、我が身ひとつも救い得ない」とは『臨済録」にある言葉ですがどういう意味でしょうか。

禅文化研究所の『臨済録』にある山田無文老師の提唱を参考にします。

無文老師はこの三句について、

「第一句は機縁の一句だ。

第二句は声前の一句である。

第三句は応機接物である。

理論によって説明をしていくのが、第三句だ。

色は即ち空なり、空は即ち色なりなぞと説明をしていけば、これは第三句だ。

そうした理論以前の一句が第二句だ。

趙州云く、「無ウウウーッ」だ。

理論以前だ。

洞山云く、「麻三斤」。

雲門云く、「日々是れ好日」。

みんな理論以前の言句である。

分別以前の言葉である。

第一句は、その言葉にもならん一句だ。

「喝アアアアーッ」というやつが第一句だ。

德山の三十棒だ。

払子を立てるやつだ。これが第一句だ。

言葉にならない第一句、その第一句の中で、禅が分かるというような優れた男があるならば、釈迦、達磨の師匠にもなれるやつだ。

「日々是れ好日」、煮ても焼いても食えんようなこの一句が分かるならば、人天のために師匠となれるだろう。

色は即ち空なり、空は即ち色なりなぞと説明されて、初めてようやく分かるようであれば、自分でさえも済度はできんであろう。」

と説いてくださっています。

小川先生は「難解だが、第一句は存在以前、第二句は言語以前、第三句はすでに言語化された段階、とひとまず解しておきたい」と解説されました。

言葉にならない世界と言葉になった世界と二つに分けるのでしたらまだ分かりやすいのですが、三つになるとわかりにくいのです。

もっとも分かったと思ったら、すでにそれは違うと言われるのでしょう。

お師匠様にお仕えしていて、何も仰せにならなくても、その気配や雰囲気で、今何をしてあげたらいいか察してはたらくのは第一句といえましょう。

なにかの仕草か、あるいは何気ないひと言で師匠の気持ちを察してはたらくのは第二句といえましょうか。

いちいち丁寧に説明されないと分からないというのは第三句かなと思ったりします。

 
横田南嶺

三句

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