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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.20
今日の言葉

露の世ながら

十二月の日曜説教は朝から強い雨でありました。

雨が降り、しかもそれは冷たい雨でありました。

こんなに寒く冷たい雨の中を、大勢の方がお集まりくださっていました。

そんな皆さんのお姿を拝見するだけで涙がにじみます。

毎回の日曜説教では、

生まれたことの不思議、今日まで生きてこられたことの不思議、そして今日ここでお互いにめぐり合えたご縁に不思議に手を合わせて感謝をしましょうと言って始めています。

こんな雨の中を皆さんお越しいただいたと思うと有り難いことだと、しみじみと手を合わせました。

いつも手を合わせていますが、心から手があわさりました。

そうしていつものように目を開いてみると、外の景色が変わっていました。

やはり心から手を合わせて有り難いと感謝をすると目にみえる景色が変わるのだと改めて実感したのでした。

はじめに申し上げたのは、せっかく雨の中をお越しいただいて恐縮ですが、本日は死についての話ですと申し上げました。

そして笑いながら、死の話は、残念ながら話を聞いても死にます。

聞かなくても死にます。

お金持ちも死にます。

貧しくても死にます。

有名になっても死にます。

誰にも知られなくても死にます。

死ほど誰にとっても平等なものはありません。

そんな話から始めました。

お釈迦様が人は誰しも老い、病になりそして死ぬ存在であることを自らの身の上に深く省察されたのでした。

誰しも死を迎える、それなのに死を厭い嫌う、はたしてこれでよいのであろうかと、出家して道を求められたのでした。

はじめは二人の仙人について学び更に難行苦行をして解決を求められました。

そして悟りを開かれてはじめて仰せになったのが、

「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。」『法句経』(一五四番)

という言葉です。

こちらは岩波文庫『ブッダ真理の言葉 感興のことば』にあります中村元先生の訳であります。

死の苦しみからの解放を求めてお釈迦様は自らの心を深く見つめられたのでした。

死の苦しみから解放されようとして、死なない方法を探したのではありません。

また死後の世界について独自の話を作ったわけでもありません。

多くの宗教はこの死の問題について答えを用意します。

それぞれの宗教において独自の死後の世界を説いています。

信者はその教えを信じてこの世の務めをなせばよいと教えられます。

お釈迦様はそのような解決の仕方ではなく、自らの心の中に求めてゆかれました。

そもそもなぜ死が恐怖となり、問題となるのか、それは死にたくない、自分はいつまでの生きていてほしいと願う強い自我意識によってもたらされるのです。

自我意識の強い人ほど、死の恐れや不安も大きくなります。

この自我意識、煩悩を消すことがお釈迦様の悟られた真理でありました。

後の大乗仏教では無量の光と命を説くようになりました。

それが阿弥陀様であります。

また禅宗では仏心の世界を説くようになりました。

「私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。生まれたからといって仏心の大海は増えず、死んだからといって、仏心の大海は減らず。私どもは皆仏心の一滴である。一滴の水を離れて大海はなく、幻の如きはかない命がそのまま永劫不滅の仏心の大生命である。人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る。生まれる前も仏心、生きている間も仏心、死んでからも仏心、仏心とは一秒時も離れていない。」とは朝比奈宗源老師がお説きになったことです。

皆仏心の中に帰るのです。

そのようなことまでは、その前日の朝日カルチャーでも話したことであり、よくお話することであります。

今回の日曜説教では、そのあと

「われらは流転輪廻のその中で、父母の死、わが子の死、友の死に、四つの大海よりも多い涙を流したのであった」(相応部経典)というお釈迦様の言葉を紹介しました。

人は皆仏心の中に生まれ、仏心の中に生きて、仏心の中に息を引き取るのです。

俱に遊ぶ、仏心光明の中というように、みな仏心の中に帰ってひとつになるのです。

そうはいっても、そう分かってはいても、お釈迦様が仰せになっているように、人は別れにさいして涙を流すのであります。

そう言って、先月親しかった和尚が亡くなった話をしました。

まだ五十七歳でした。

長らくお世話になった和尚でした。

その和尚の話をしながら、涙がこみ上げてきました。

しかし法話は、話す者が涙を流してはいけません。

涙が流れ出るギリギリのところを耐えながら話をします。

最後に「露の世は露の世ながらさりがなら」といって法話を終えました。

これ以上もの言えば声にならないと思ったのでした。

小林一茶の句であります。

一茶は五十二歳の時に結婚しました。

六十歳までに三男一女をもうけました。

しかし、その子供たちは次々と亡くなってゆくのでした。

まず長男は誕生の翌月に亡くなりました。

その二年後に長女さとが生まれました。

その一年後さとが天然痘にかかって発熱し間もなく亡くなります。

「露の世は露の世ながらさりながら」一茶の深い悲しみの句であります。

その後も次男が亡くなり、三男を産んで妻が亡くなります。

その母を追うように三男も亡くなります。

一茶の悲しみははかりしれません。

人は皆このような悲しみを抱えて生きているのであります。

 
横田南嶺

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