達摩大師の姿
唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。
若者は名は杜子春といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費ひ尽くして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になつてゐるのです。
何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。」
芥川龍之介の有名な『杜子春』の始まりであります。
洛陽の都の様子が画かれています。
洛陽というのは、『広辞苑』によると、
「(洛河の北に位置するからいう)
中国河南省の都市。北に邙山を負い、南に洛河を控えた要害の地。
周代の洛邑で、後漢・晋・北魏・後唐の都、隋・唐の副都となり、今日も白馬寺・竜門石窟など旧跡が多い。機械工業が盛ん。人口196万5千(2012)。」
と書かれています。
ここに出てくる白馬寺も有名です。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「白馬寺
中国、河南省洛陽市。後漢の明帝(めいてい)の永平年間(58-75)に、摂摩騰(しょうまとう)(迦葉(かしょう)摩騰)、竺法蘭(じくほうらん)が四十二章経(しじゅうにしょうぎょう)などを白馬に背負わせてインドから来たので、明帝は中国で初めて寺院を建立し、それらの経典を安置した。その因縁から寺の名前を<白馬寺>といったという。すなわち、白馬寺は中国最初の寺院である。」
と解説されています。
中国に仏教が伝わって最初の寺として覚えていました。
ところが、『仏教辞典』にはそのあと、
「ただし、中国への仏教初伝に関し、明帝にまつわる説が種々あるが、その古い資料には白馬寺は出ない。上述の白馬寺伝説は後代の創作であり、北魏(386―534)の頃より北朝を中心に広まったものらしい。」
という記述がありました。
これは存じ上げないことでありました。
てっきり白馬寺が最も古いお寺だという説を信じていたのでした。
『洛陽伽藍記』という書物があります。
北魏(386―534)の楊衒之(ようげんし)の著です。
『仏教辞典』には、
「北魏の都の洛陽は、仏教都市として全盛を極めたが、北魏の末年、永熙(えいき)の乱を経て壊滅に帰した。
乱の後、往時の栄華を追憶してこの書物が編まれた。
永寧寺をはじめとする城内城外の寺院をめぐる様々な事柄や歴史的事件のほか、都に住まいする庶民たちの生活などについても、抑制のきいた文体で生き生きと描写されている。」
と書かれています。
永寧寺には塔があったようで、次のように詳細に記述されています。
『洛陽伽藍記』は平凡社の『東洋文庫517 洛陽伽藍記』に入矢義高先生の現代語訳が出ていますので、そこから引用させてもらいます。
「この境内には九重の塔が一基あって、木を組み上げて建てられ、高さは計九十丈。頂きには更に金色の刹竿(相輪)が十丈、全部で地上千尺の高さになり、都から百里離れたところからでも望見できた。
当初、塔の基礎工事で地を掘り下げて地下水に達した時、黄金の仏像三十二体を得た。
太后はこれを信心のしるしだとし、そこで塔の造営が並はずれたものとなったのである。」
というのです。
そして「建築技術の粋を尽くし、造形美術の妙を極めたこの荘厳の精巧さは、この世のものとも思えず、彫りのある柱や金の鋪首は、見る人の目を驚かせ心をゆさぶった。
風のある秋の夜などは、金の鈴の音が響きあって、その鏗鏘たる調ペは、十余里にまで聞こえた。」
と書かれています。
いかに莊嚴な塔であったか察せられます。
その永寧寺の記述の箇所に、達摩大師が出てくるのです。
「このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。
ペルシャ生まれの胡人であった。
彼は遙かな夷狄の国を出で立って、わが中国ヘ来遊したが、この塔の金盤が日に輝き、その光が雲表を照らしているのを見、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見て、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと歎称した。
その自ら言うところでは、年は百五十歲で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばぬ所はないが、この寺の素晴らしさは閻浮(ひとのよ)には又とないもの、たとい仏国土を隈なく求めても見当たらぬと言い、口に「南無」と誦しつつ、幾日も合掌しつづけていた。」
と書かれています。
この『洛陽伽藍記』を書いた楊衒之が五世紀から六世紀頃の人ですから、かなり古い記述であります。
達磨大師のはなしのほとんどは後世に作られたものだと言われていますが、この記述などは晩年の達摩大師の姿を伝えているように思われます。
伝統的に伝えられている話では、香至国の王子であった頃に、王が般若多羅尊者に世に二つとない宝玉を与えたのを、それは世間の宝であって真の宝ではないといい、梁の武帝がたくさんの寺を建て僧を度したことを、それらは人天の小さい果報であり、有漏の因、迷いのもとになるものだと言ったとされていますが、壮大な塔を仰ぎ見て幾日も合掌し続ける姿とは同じ人物とは思いがたいように感じます。
もっとも最晩年の故だとも考えられます。
ここに出てくる達摩大師の記述は達摩大師のことを述べるためではなく、永寧寺の塔の素晴らしさを言うために書かれているのです。
しかしそんな永寧寺の塔も焼けてしまうのです。
『洛陽伽藍記』には
「永熙三年(五三四)二月、この塔は火災で焼け落ちた。
孝武帝は凌雲台に登って火を望見されると、南陽王の宝炬と、錄尚書事の長孫稚をつかわし、近衛兵一千を率いて消火に向かわせた。
しかしみな哀惜しつつ涙を流して立ち去った。
最初、火は塔の第八層から、夜明けに噴き出したのであるが、そのとき雷雨のために一天搔き曇り、あられまじりの雪も降り出した。
市民僧俗心一斉に火を見に集まり、悲しみの声が都じゅうを揺り動かした。
そのとき三人の僧が火中に飛びこんで自殺した。
火は三月たっても消えず、地下の基柱にまで火がはいって、一年たってもくすぶり続けていた。」
と書かれています。
栄枯は移る世の姿であります。
『洛陽伽藍記』に出てくる達摩大師のお姿でありました。
横田南嶺