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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.10
今日の言葉

一撃で気がつく

香厳和尚という唐代の禅僧がいらっしゃいます。

『禅学大辞典』の記述によれば、西暦八九八年にお亡くなりになっています。

その経歴について同じく『禅学大辞典』には、

「百丈懷海について出家し、のち潙山霊祐に参ずる。

潙山より父母未生前の一句を道取せよと詰問されて答えられず潙山を辞し、南陽の武当山に入り慧忠国師の遺跡に菴居したが、一日庭前の掃除の次いで瓦礫が竹にぶつかる音を聞いて契悟、ついに潙山の法を嗣いだ。

のち、香厳山に住し禪風を挙揚した。光化元年示寂。」

と簡潔に書かれています。

香厳和尚は、お若いころから博覧強記で、一を問えば十を答える有様であり、弁も立つし聡明な方でありました。

この方が潙山和尚の下で修行していた時に、潙山和尚から一つの問題を出されました。

「あなたがまだ母の胎内から生まれる前の、本来の自己とはどのようなものか」という問いです。

聡明な香厳禅師ですから、すぐさま答えを示しました。

潙山和尚から「だめだ」と言われてもまたすぐに答えを出すことができました。

しかしながら何を答えても、潙山和尚はその悉くを否定して全く許さないのでした。

とうとうさすがの香厳も答えることが無くなって、潙山和尚に答えを求めました。

お手上げの状態です。

しかし、潙山和尚は、私が答えてあげれば、それは私の答えであって、あなたのものにはならないと突き放しました。

とうとう行き詰まってしまった香厳禅師は、今まで学んで蓄えてきた仏法のノートを全部、「画餅は飢えを充たさず、絵に画いた餠では腹はふくれない」と言って焼却してしまいました。

そこで慧忠国師のお墓の掃除をしようと、墓守になりました。

毎日毎日ただひたすらお墓の掃除をしていたのです。

もちろん掃除をしながらも、本来の自己とは何か深く参究していたのだろうと察します

ある日のこと落ち葉を掃いて集めて竹藪に捨てました。

そうしたら落ち葉の中に小石が混ざっていたのか、その小石が竹に当たってカチーンと音がしました。

その音を聞いてたちまち気がついたのでした。

「そうだこれだ」と。

そこではるかに潙山和尚のいらっしゃる方に向かって恭しく礼拝をしました。

「あの時に何も教えてくれなかったおかげです。もし何か教えてくれていたら今日の喜びはありませんでした」と深く感謝したのでした。

その時の悟りの心境を漢詩に表しています。

その冒頭の一句が、「一撃所知を忘ず。更に修治を仮らず」という言葉です。

小石が竹に当たって、カチーンと響いた、その音、カチーンと聞いた端的、これは学問が有るだの無いだの、性格だの経歴だの、何にも関わりない。カチーンと鳴ったら、そのままカチーンと響くのです。

香厳禅師のそのときの漢詩をおおよそ意訳しますと次の通りです。

「このカチーンと聞いたものに気がつけば、もはや何をしていても本来の自己を離れることはない、今も常に生き生きとはたらきづめにはたらいている。

手を挙げても足を運んでも何をしていても仏さまや祖師の伝えた道から踏み外すことはない。

しかしそれはけっして何か物寂しい消極的な境地ではない。空寂の中にすばらしいはたらきがある。それでいて、そのはたらきには何のあとかたも残さない。五感や思慮は生き生きとはたらいているが、それはすこしも滞らず全く自然で無心である。

これこそまさに道に達した人々が上々のはたらきだといったものである」という意味です。

円覚寺の修行道場で、指導者である師家のすまいを「一撃亭」といいます。

これは、江戸時代に国師が、修行道場を正続院に作った時に、ご自身の住まいを「一撃」と名付けられたことによります。

そこに小さく瀟洒な門があって、「一撃」と書かれた額が掲げられています。

その柱に聯が掛けられていて、円覚寺の開山仏光国師(無学祖元)の漢詩の一節が書かれています。

「怪しむこと莫れ、当路の筍を除かざることを。

要す、君が此に来たって立つこと須臾ならんことを」という言葉です。

「門のあたり、道の真ん中に筍が出ているが、この筍を採らないでいることを不思議に思わないでほしい。

ここであなたにほんのしばらくでも立ち止まってほしいからなのだ」という意味です。

それは、遠い昔、香厳和尚が、本当の自分とは何か求めて、毎日毎日墓掃除をしていて、小石が竹に当たってカチーンと響いた、その音を聞いて気がついた、そんな古人の苦労を少しは立ち止まって、思ってほしいという佛光国師の気持ちなのだろうと察します。

奥ゆかしい国師の心がしのばれる。

そんな一撃亭に住まわせてもらって臘八摂心の間は、毎日五回の独参を行っています。

またこの香厳禅師の偈については、仏光国師が仏鑑禅師と問答もなさっているのです。

「一撃、所知を忘じ、更に修治を仮らず。」とはどういうことか、仏光国師は「本来此の如く現成、何ぞ参尋を用いん」と解説します。

「本來そのようであったということで、それが現成している以上、もはや追い求めることはいらぬ」ということです。

更に「動容に古路を揚げ、悄然の機に堕せずとはどういうことか?」と問われて、仏光国師は答えられませんでした。

そこで仏鑑禅師から竹篦で打たれて追い出されてしまいました。

はっきりしないまま仏鑑禅師はその明くる年に遷化なされました。

このところがはっきりされたのは、仏鑑禅師が亡くなって数年後のこととなります。

一つの偈を巡って祖師方のいろんな逸話がございます。

 
横田南嶺

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