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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.09
今日の言葉

仏心のうち

臘八の摂心の間はよく葉が散って落ちます。

道に落ち葉が散り敷いている様子もこれまた風情だと思いますが、どうも禅宗では朝のうちにきれいに掃いておかないとという思いが強いのです。

朝のまだ暗いうちから掃き掃除に精を出します。

私もほんのお手伝いで一緒に庭を掃いたりしています。

十年の夢の如くに過ぎはてて
 今日この庭の落ち葉をぞ掃く

という和歌を作っていたことを思い出しました。

僧堂で修行して十年になった頃であります。

僧堂で十年も修行するなど、想像もしなかったものです。

十年も修行すればどんな超人になるかと思ったものでした。

しかし、実際に自分も気がついてみれば、十年も僧堂にいたことになっていました。

しかし、なにも超人になることもなし、今日も相変わらず落ち葉を掃くだけだという気持ちなのです。

そんなことを思っていました。

庭を掃くにもいろんな思いがあります。

何を思おうと、思うことは皆妄想といえば妄想です。

ただ掃くに如くはないのです。

それでもいろんな感懐があります。

修行時代には、何かに追われるようにして急いで掃いていたように思います。

次の仕事が常に控えていますので、いかに早く終えるか工夫をしたものでした。

またサッサとしないと叱られていた経験も大きいように思います。

ことに臘八の摂心の時などは、紅葉していた葉がハラハラと落ちるので、なんでこんなに落ちるのかと恨めしく思ったりもしました。

また掃除しているそばから、ハラハラと落ちてくるので、これまたなんともいえない思いをしたものです。

それでも修行時代には、老師がお通りになる道には葉が落ちていないようにと心を配ったものでした。

そんなことを思うとこの頃は別段急ぐこともなくのんびり掃除をしています。

むしろ体を動かすことになっていいと思いながら掃除をしたりしています。

朝比奈宗源老師の『碧巌録提唱』を調べていると、今北洪川老師の和歌が載っていました。

はらはらと落ち葉散りしく夕暮れに降らぬ時雨の音をこそ聞け

瀟湘の夜半に落ち葉を拾いきてけさの衣に雨をこそ聞け

という和歌であります。

さすが洪川老師の和歌はすばらしいものです。

また『碧巌録提唱』に朝比奈老師は仏心について説いてくださっています。

「人は悉く佛心のうちに生れ、佛心のうちに生き、佛心のなかに息を引き取るのです。

決してよそへは行かんと、死後の不安なんかはもう必要はないと、私はいつも申上げる。

「衆生本来佛なり」

佛法の信心の一番大事なことは、人はそうした尊い佛心の中にいるという、これを自覚することです。

あそうだと、こう思うことです。

たとえどんなに有難い身の上であっても、自分がそれを自覚しないことには何もならん。

蒲団の中に、暖く寝ていても、悲しい夢もみれば、苦しい夢もみる。

ですから、ああそうか、それならこれでいいのだなという自覚が持てた時、人は宗教的にいえば救われる。

本来救われているのですが、この自覚の問題です。

佛ということは、覚者、悟れる人ということです。

一人釈迦牟尼佛が佛であるんじゃない、人はみな佛であるが、佛たるの自覚、わしは佛と変わらない、尊い佛心を具えているんだという、この自觉が具わった時、その人は佛です。

いいですか。

そうした佛心の信心を、信じて徹底すれば、それでよろしいが、もうひとつ坐禅によってはっきりしたい人が坐禅をする。

結局、坐禅も精出していて、決定するということはいまの信を徹底することだ。

大本を言えば、本来救われているのだが、自覚を得た時、初めて本人は実際上救われる。

こういう関係は、浄土系統の教えが上手に說明します。

門徒にはこんなことがよくありますよ。

私は話をするのが下手だが、つまり、阿弥陀如来は絕対の慈悲をもってみんなを救って下さるという大誓願をたてているんだという、だから、阿弥陀如来よ、お願いしますという一念決定すれば、お前心配せんでもいいんだとこういう、ところがそれが決定出来ないということを、人が丸木橋を渡っていると、すっと足をすべらした、これは大変だと橋ヘしがみついた。

だんだん手は疲れてくる。ところが下ヘ船をもっていって、「さあ、手を離せ、手を離せばお前はわしの船の上ヘ落ちる、心配はない、船の上には痛くないように蒲団も敷いてある。それ、手を離せ」と言われるが、離されない、下に来ているやら来ていないやらわからんから、離されんというのです。

もうくたびれちゃってどうにもしようがない、ままよと離してどしんと落ちれば蒲団の上だ。

やれやれ、こうだったらとっくに離すんだったと、まあこんなのが他力の信心だとこういうのです。

禅でいっても同じことだ。

とっくに佛心の真只中にいるんだが、それに気がついたら、そうかと信じきれたら、それでよし、信じられないで坐禅をして、ああなるほどこれでよいとこういけるか、この自覚が伴なった時、人はすべて佛であるという真理が、私は佛でありましたという自覚になる。

折角ご縁があってこうして提唱を聴いたり、坐禅でもするのですから、この信心を決定して、あとの日常のこと、そうして生命の問題は、絕対不安はない、实はただいまも大涅槃の世界なのです。」

と説かれています。

落ち葉のはらはらと散るのもせっせと掃くのも共に仏心のうちのことです。

今日もまた掃いてはまたもはらはらと落ち葉散り敷く仏心のうち

はらはらと落ち葉の散るも掃く人もみなもろともに仏心のうち

 
横田南嶺

仏心のうち

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