本当の自分を尋ねて
それからしばしの間、バーラーナシーに留まっておられました。
そしてウルヴェーラに向かって出発し、その途中、お釈迦様は、ある森に立寄り、一本の樹の下で坐って瞑想していました。
その時に、三十人の若者たちが、妻をつれて、この森に遊びにきていました。
その中の一人は、まだ妻がなくて、ある女性を伴って遊んでいました。
若者達が遊んでいる間に、その女性が若者たちの金品を盗んで逃げてしまいました。
若者たちはその女性を探して森の中に入りました。
すると森の中の一本の木の下にお釈迦さがお坐りになっているのに出会いました。
そしてお釈迦様に女性が逃げてきたのを見なかったかと聞きました。
お釈迦様は、その女性を探してどうするつもりなのかと問います。
その女性は私たちの金品を持って逃げたのですと答えました。
するとお釈迦様は言ったのでした。
「なんじらは、いかに思うか。女性を探すのと、己れをたずねると、いずれが大事であるか。」と。
すると若者たちは「それは、己れをたずねることが大事です。」と答えたのでした。
お釈迦様は「では、ここに坐するがよい。わたしは、あなたたちのために法を説いてあげよう」と告げました。
そこでお釈迦様は、彼らの為に法を説いたのでした。
若者達も「その心は白き布のごとく、たちまち正しき法の色を受けて、汚れなき真理ヘの眼を生じた。かくて彼らは、世尊の教えを措いてまた他に依るべきところはないと思い、世尊に白して言った。「われら願わくは、世尊のみもとにおいて修行することを許したまえ。」」
とお願いしたのでした。
このところは増谷文雄先生の『阿含経典による仏教の根本聖典』にある文章を引用しています。
そこでお釈迦様は。「来たれ比丘たちよ、法はよく說かれた。来たって、きよき修行をなし、苦の滅を得るがよい。」と言ったのでした。
これが彼らの受戒となったのでした。
こんなお釈迦様の話があります。
自己を尋ねていくという教えが仏教の最初のころからあったとわかります。
禅にも「十牛図」というのが伝わっています。
十牛図とは『広辞苑』に「中国、北宋代の禅の書。
禅の修道の過程を、牧人と牛との関係になぞらえ、十の絵と頌によって示したもの。
廓庵禅師のものが広く行われ、尋牛・見跡・見牛・得牛・牧牛・騎牛帰家・忘牛存人・人牛俱忘・返本還源・入鄽垂手の順。」
と解説されています。
本当の自己というものを牛に喩えて牛を尋ねてゆくところから始まっています。
第一が尋牛といいます。
そのはじめに
「はじめから見失っていないのに、どうしてさがし求める必要があろうか。」
と書かれています。
これが禅の大事な教えであります。
本当の自分と今の自分と二つあるように思っています。
しかし、本当の自分はもともと失われてはないのです。
あなた自身が本当の自分に他ならないのです。
その真理に目覚めたのが唐の時代の禅僧たちでありました。
この心がそのまま仏だと気がついたのです。
そこでなにも外に求める必要はないと臨済禅師は繰り返し説かれました。
外に探し求める心がおさまったら無事の人であり、仏であると説かれています。
しかし現実の私たちはすでに煩悩にまみれてしまっています。
悪い習慣が身についてしまっています。
今の時代で申し上げると、姿勢も既に乱れてしまい、食生活もまた乱れてしまっています。
このままでいいというわけにはゆかないのです。
そこでやはり本当の自分とは何かを求めていくことが必要になります。
本当の自分に目覚めるための修練も必要になります。
そのような修練を経てはじめて「もともと何も失われていなかった」と気がつくことができるのです。
十牛図は、そのようにまず現実態をそのまま是認するわけにはいかないので、あえて本当の自分、本来の自己を牛に喩えて、探し求める旅に出るところから始まります。
そして自己を修練する過程があります。
牛を見つけて捕らえて飼い慣らすのです。
そうしましたら、本来の自己に落ち着くことができます。
しかし、禅はそこに安住することをよしとしません。
そこで更に牛も自己も忘れるのです。
忘れたところにも安住せずにもう一度現実の世界に戻ってきます。
そこで人々の為に尽くしてはたらいていくのです。
ただやはり大事なことは本来性の自覚にあります。
本来の自己というのはもともと具わっていて失われるものではないのです。
それに目覚める為の修行なのです。
修行して特別な能力を身につけるというようなものではないのです。
姿勢で言えば、特別な姿になることを求めるのではありません。
0歳児の頃にハイハイから坐った時に腰が立って良い姿勢だったのです。
それが長年の習慣でゆがんでしまったのです。
もともと深い呼吸が出来ていたのに、浅い呼吸になってしまったのです。
それを本来のあり方に戻すという修行であります。
そうして何も失われていなかったということに気がつくのです。
横田南嶺