仏伝から学ぶ
佐々木先生は今回お釈迦さまの一生を物語っている仏伝からそれぞれのエピソードが持つ意味を捉えながら、それが現代の私たちにとって何を語りかけているのかを学ぶということでお話くださいました。
お釈迦さまの一生から、私たちは現代仏教の何を学ぶことができるのかというテーマであります。
私たち仏教を学ぶ者にとってはとても興味深く、そして大事な問題であります。
佐々木先生もこのことは「私のチャレンジ」だと語っておられました。
仏教というのは、神という絶対者を信じて、それにすがるという宗教ではありません。
自らの知の力を使って、今お互いが当たり前のように見えている世界の中から、本当の真理を見つけ出していく教えであります。
真理を見るための力、これを智慧と言いますが、その智慧の力で、この世界の中から、素晴らしい真理を見つけ出していくのです。
お釈迦様の誕生の話から始まり、やがて話は四門出遊へと展開してゆきました。
佐々木先生も四門出遊は、絶対に必要であり、これこそが現代的な意味での仏教のあり方を語る話だと強調されました。
お釈迦様のお父様は、息子であるお釈迦様が絶対に出家しないようにとあれこれ心を配りました。
出家されると、跡継ぎが途絶えてしまって困ります。
そこで、出家しないようにと、人生の苦しみを見せないようにしました。
人は人生の苦しみに出会って、そこから悩み、苦しみから抜け出そうとして出家を考えます。
人生の苦しみというと、年を取って老いてゆく苦しみ、病気になる苦しみ、そして死ぬ苦しみです
この三つを見せないように、感じさせないようにして育てたのでした。
お父様はお釈迦様の周りに老人も病人も、ましてや死人も一切置かずに、世の中にそんなものがあるということも教えずに、楽しく遊ぶ毎日を送るようにさせたのでした。
しかしながらお釈迦様も青年期になって、お父様の方も少し気が緩んだのでしょう。
もうそろそろ世の中のことを見せてもいいだろうとお考えになってお釈迦様を城の外へ出したのでした。
侍者と二人だけで馬車に乗って街の中に出ましたら、そこで当然、今まで見たことのない、遠ざけられていた人生の三つの苦しみと直接出会うことになりました。
老人と病人と死人とをまのあたりにするのです。
お城の門が四つあって、その三つの門から出たら、三つの苦しみの人を見るのです。
はじめの門を出て老人を見ました。
お釈迦様は、あれはどういう人であるかと問います。
お釈迦様にとっては見たことない人だったのです。
侍者は、あれは老人というものでございますと答えます。
それはどういうものなのかと問うと、人は年をとって、やがて腰が曲がって、皺ができてああやって苦しくつらい状態になるのでございますと言います。
どういうことをしたらああいう老人になるかと問いますと、人が生きているということそのものが歳をとるということなのでございますと答えます。
そして佐々木先生はその次の言葉が大事であり、仏教が今でも役に立つ一つの教えだと仰いました。
それは私もそのようになるのかと問うたのです。
侍者がその通りです、あなたも年をとって老人になるのですと言いました。
するとお釈迦様は衝撃を受けて塞ぎ込んで城に戻ってしまったのでした。
今度は別の門から出て、病人に出会います。
そして更に死人に会います。
そこで私も病気になるか、私も死ぬのかと問います。
老と病と死と三つのの苦しみから逃れることはできません。
これがなぜ今現代的な問題なのか、佐々木先生は教えてくださいました。
現代においても我々はみんな誰もが年をとって病気になってやがて死んでいくということは知っています。
しかし知っていながら誰も不幸な顔はしていません。
なぜなら、その老病死はすべて他人ごとだからというのです。
この世にはたくさんの災害があり、多くの苦しみを感じている人がいるというのは誰でも知ります。
それをテレビの向こうで見ているのです。
テレビで見ている時は全部他人ごとなのです。
だから私たちは人生の苦しみを知っているかのように振る舞っていますが。他人ごととして見ているのです。
しかし、その他人ごとが、ある日突然、自分のこととして降りかかってくることがあります。
災害に遭うというのはそのことです。
例えば地震がきた、洪水がきた、そうすると、それまでみんなが言っている楽しく暮らす生活が一瞬にして全部壊れてしまいます。
愛する人が目の前で死んでいくというようなことになると、今まで他人事であった不幸は、自分の不幸として、逃れがたい苦しみになります。
その時初めて人は涙を流して泣きます。
その耐えがたい悲しみを感じた時に、生きていることの本質は苦しみだと私たちは知ります。
災害にあって自分の愛する子どもを亡くしたりすると、人はなんというかと言えば、あの時から時間が止まっていますというのです。
それ以来、その時に感じた悲しみ、不幸は、その後の人生でいくら目先の喜びや楽しみがあったとしても、その悲しみは消すことができないという意味です。
その悲しみを消すような喜びなど世の中にありはしないと気がつくのです。
「これは実は仏教に携わる人間は常に考えておかなければならないことです」と佐々木先生は仰いました。
人は皆、同じ顔をして同じように生きているように見えますが、一人一人の心の中には、深い悲しみを抱えながら生きているのです。
お釈迦様はこの三つの門から出た時に、自分はまだ災害にあってないし、年もとってないけれども、自分でそのことを理解したのです。
お釈迦様だからこそ、自分自身がその身になっていなくても、そういうものだと分かったのです。
これがお釈迦さまのお釈迦様たるゆえんだというのです。
そこで佐々木先生が仰った言葉が印象に残りました。
「世の中には悲しみだけで生きている人もいっぱいいるということを知っている、そのことを多分慈悲と言うのでしょうね」という言葉です。
これは慈悲の本質をついた言葉だと思いました。
四門出遊では四つの門があります。
もうひとつの門を出てお釈迦様は、修行者、宗教者に出会ったのです。
髪の毛もぼさぼさで、ひげぼうぼうで衣一枚着て裸足で歩いていた修行者です。
修行者というのは何かと聞きました。
修行者というのは、真の安楽、本当の心の安らぎを求めて、あのように各地を遍歴して修行しているのですと侍者は答えました。
自分も死ぬ者である、というこの事実をどうすることもできなくて私も坐禅をしてきました。
お釈迦様の伝記を読んだ時も、同じ思いをして道を歩いた先達がいたのだと確信して喜んだものでした。
佐々木先生から四門出遊の話を聞きながら、仏教の原点を思いました。
横田南嶺