ただ、だけ、のみ
午前中は博多での法要に参列して、終わり次第福岡空港に行って、羽田についてそのまま麟祥院に行って講義をしていました。
飛行機が時間通りに飛んでくれれば可能な日程です。
どうにか遅れずに予定を終えることができました。
残念ながら小川先生のご講義を拝聴できずで、あとで録音を聞かせてもらいました。
大慧禅師の宗門武庫について学んでいます。
あらましはこんな話なのです。
五祖法演禅師の門下に法閦というお坊さんがいました。
この五祖禅師のお弟子が圜悟禅師で、大慧禅師はその圜悟禅師のお弟子にあたります。
五祖禅師に法閦和尚が参禅したときにこんな問題を出されました。
「とたらざる是れぞ?」
という問題です。
小川先生は、
「あらゆる存在と関わりをもたぬ者とは、どのような人か?」
と訳されていました。
法閦和尚は、私はそうではないと答えました。
そんなあらゆる存在と関わりを持たぬような者ではありませんということでしょう。
すると五祖禅師は、法閦和尚をさして、
「やめろ、やめろ! 私はそうではないと言うのなら、いったいどうなのだ」と問い詰めます。
そこで法閦和尚は、ハッと気がついたという話しです。
「万法と侶たらざる者」、これが問題なのです。
小川先生は、「万法、ありとあらゆる存在、ありとあらゆる事物、事象、あらゆる存在とともずれ、道ずれにならない人、つまりいかなる現実の諸事物とも関わりを持たぬものということ」だと解説されていました。
これには古く龐居士と馬祖禅師の問答が知られています。
龐居士が馬祖禅師に参禅しました。
そこで龐居士は、馬祖禅師に、
「万法と侶と為らざるは、是什麼人ぞ」と問います。
祖云く、「你の一口に西江水を吸尽するを待ちて、 即ち汝に向いて道わん」。
馬祖は、あなたが西江の河の水を一息に飲み尽くしたら言ってあげようと答えたのでした。
日本でしたら、利根川の水をひとくちに飲み尽くしたらという意味合いであります。
ここで居士は悟ったという問答です。
さて法閦和尚の話はこのあと更に続きます。
ここからは小川先生の現代語訳を参照します。
「のち、法閦は廬山東林寺の和尚の室内に入り、そこで説かれていた平常無事の禅をすっかり手に入れた。」
宣秘度和尚というのは、宣秘が号で、思度和尚という方です。
「ある日のこと、法閦は一本の花を手に持ち、禅牀に坐した宣祕度和尚の周囲をぐるりと一回りした。そして、その花を後ろ手に香爐に挿して、言った。
「さあ、和尚、言うてみてくだされ。これは如何なる意か?」
宣祕度和尚はそれに対する一句を幾つも述べたが、法閦はどれも受けつけなかった。
かくてが過ぎ、和尚はとうとうをあげた。
「試しに、おぬしが言うてみてくれ」
そこで、法閦は言った。
「それがしは、ただ、花を香爐に挿しただけ。和尚がひとりで勝手に、そこに何事かあるものとお疑いになられただけのことです」」
というのであります。
ちょうどこのあたりをご講義なされている時には私は麟祥院に到着したのでした。
小川先生は、この問答を「平実の禅、悟りも求めない、意味も求めない、ただありのままでいる、そんな禅に安住していることを、揶揄している」と解説されていました。
この問答を聞きながら、私は無住禅師の話を思い出しました。
こちらも小川先生の『禅思想史講義』にある現代語訳を引用します。
「それがしが一つ、例え話をして進ぜよう
とある一人の男が、小高い丘のうえに立っておった。そこへ、三人の男が連れだって通りかかる。遠くに人が立っているのを見て、三人は口々に言い出した。
「あのお人は、家畜を見失のうたのであろう」
「いや、連れとはぐれたのだ」
「いや、いや、風にあたって涼んでおるのだ」
こうなると、言い争いになって収拾がつかぬ。
それで近づいて行って、当の本人にたずねてみた。
「家畜を見失われたので?」
「いや」
「では、連れのお方とおはぐれに?」
「ベつに」
「なら、風にあたって涼んでおいでで?」
「ちがう」
「はて、そのどれでもないとなると、こんな高いところで、いったい何の為に立っておいでで?」
「只没に立つ-うむ、たた、立っておるのだ」」
という問答です。
ただ立っているだけ、それなのに、あれこれと理論を着けたくなるものです。
こんな迷いを私たちはよく犯してしまいます。
修行時代にある先輩の方から聞いた話があります。
もう何十年も前のことです。
全国から大勢の修行僧が集まって摂心をしたそうです。
とある老師が修行僧たちに問題を出しました。
大石の上に小石を乗せて是れ什麼ぞというのです。
修行僧たちは、懸命に何か一句言おうと試みました。
しかし老師は何を言っても駄目だと退けられたそうです。
これはただ大石の上に小石を乗せただけなのです。
ところが「是れ什麼ぞ」と言われると、あれこれと考えてしまうのです。
坐禅をしたら呼吸だけなのです。
しかし人はどれくらい吸ったらいいのか、どれくらいの長さがいいのはあれこれ考えます。
はては様々な呼吸法を考えたものです。
あまり呼吸法に考え過ぎると息も詰まります。
ただ吐いたり吸ったりしているだけ、これが呼吸です。
なかなかこの「ただ」「だけ」になれないのがお互いなのです。
迷いというのはこうして起きているのだと思って聞いていました。
そんなことを考えていると、博多から湯島に来て講義をしてたいへんのようにも感じますが、ただ飛行機に乗っていただけ。
ただ座席に座っていただけのことと思えば気楽になりました。
このただしているだけというのが「万法と侶たらざる者」そのものです。
「ただ」「だけ」「のみ」というのは簡単のようで難しい、奥深いものです。
横田南嶺