無理はよくない
『広辞苑』には、
「休憩時間を減らしたり昼夜を通じて歩いたりなど、日々の行程を増大して行う行軍。
転じて、無理な日程で事を進めること。」
という解説があります。
無理はよくないと分かってはいても、稀に無理な日程で事を進めるとき、進めざるを得ないことがあります。
先日の第二日曜日から月曜日にかけては、まさにこの強行軍でありました。
無理な日程で事を進めたのでした。
どんな日程だったかというと、第二日曜日の午前中に日曜説教を務めて、午後から布薩を行いました。
布薩が終わってすぐに羽田空港に向かい、飛行機にのって福岡空港に着きました。
そして夜遅く博多のホテルに宿泊しました。
次の日の月曜日は博多の承天寺の前住職であり、京都の本山東福寺の前管長であった遠藤楚石老師の一周忌に参列しました。
法要のみ参列してお昼の食事はお断りして、すぐに福岡空港から羽田に向かい、羽田から湯島の麟祥院に行って臨済録の講義を行ったのでした。
さすがにこれは無理だと思ったのですが、こうせざるを得ないと判断をしたのでした。
もともとは第二日曜日に日曜説教と布薩を行って、次の日は午後から湯島の麟祥院の勉強会に出るという予定でありました。
麟祥院では小川隆先生の宗門武庫の講義と、私の臨済録の講義とを行っています。
私も毎月小川先生のご講義を拝聴するのを楽しみにしています。
ところが、博多の承天寺様から、楚石老師の一周忌をその月曜日に行うというご案内をいただいたのでした。
楚石老師とは、東京の白山道場の小池心叟老師のもとで得度した兄弟弟子であります。
私も学生の頃からお世話になってきたのでした。
昨年の十一月にお亡くなりになって、昨年末に津送を行って私は奠湯導師という役を務めさせてもらいました。
長年のご縁と兄弟弟子であるということから、是非とも行かないわけにはまいりません。
しかし、これは無理であります。
確かに月曜の午前中は空いていますが、福岡に行って帰るのは無理であります。
しかし行かなければならないと考えて、前日の日曜の夜遅くに博多に行っておいて、午前中の法要のみ参列して、お昼に承天寺を出て福岡空港に向かえば、夕方には間に合うと考えたのでした。
残念ながら小川先生のご講義を拝聴することはできないのですが、私の講義にはなんとかなるだろうと判断しました。
そこで強行軍となったのでした。
しかしかなりの無理であります。
飛行機が遅れることはよくあるので、もしも飛行機が遅れたらもう麟祥院には間に合いません。
天に祈るとはこのことだと思いながら、すべては思し召しのままにという思いでありました。
結果はすべて予定通りに終えることができたのでした。
いつもの講義よりも十五分ほど遅らせてもらうように小川先生にはお願いしておきました。
麟祥院では小川先生がその日にお見えになっていた河野徹山老師にお願いして、河野老師が十五分ほど先日の宇和島での白隠フォーラムについてお話下さったようでした。
そんな次第で強行軍となったのでした。
すべて順調だったのでしたが、都内からの帰りの道が混んでいていつもよりずいぶん夜遅くに鎌倉に帰ったのでした。
大事な予定を終えたのですからこれは仕方のないことと思いました。
その明くる日も午前中の法話と午後の講演とがあって、これまた過密な日程となっています。
十月、十一月は行事が多いので、頼まれることも多く、このようなことになってしまうのであります。
遠藤楚石老師は、兄弟子といっても昭和二十年のお生まれですので、私よりも十九歳年上であります。
私が学生の頃、京都の建仁寺で修行を終えられて博多の承天寺にお入りになりました。
学生のころ白山のお寺にいると、修行の休みに楚石老師が寺にお泊まりになることがありました。
もう十数年も修行された修行僧であります。
夜の遅く私が本堂で坐禅していると、それよりも猶遅くまで楚石老師は坐禅をされていました。
私は学生だったので、眠たくなって先に休んでいました。
朝のお勤めに起きると楚石老師はもう先に起きていらっしゃいました。
この方はいつ寝ているのだろうかと思ったものです。
私が建仁寺に修行に行った頃、楚石老師は博多から毎月の大摂心に詰めてこられていました。
摂心は一週間でその前の日から終わった次の日まで僧堂でお坐りになっていました。
夜も十二時を過ぎるまで楚石老師は修行僧と共に坐禅をされていました。
そのころ楚石老師はすでに博多の承天寺の老師でありました。
承天寺は東福寺派の筆頭の寺院です。
開山聖一国師が開かれたお寺であります。
老師でなけれは住職できないお寺であり、楚石老師の前の前川大道老師も東福寺の管長もお勤めになっているのです。
あるときに楚石老師のお荷物を持っていた折に、聞いたことがありました。
老師は既に老師でいらっしゃるのに、どうして毎月摂心に見えるのですかと。
その時に楚石老師は、静かにこう答えられました。
「自ら道を求めることなくして、どうして人を導くことができるのか」と。
この言葉も有り難い教えでありました。
楚石老師はそのように自らの修行も大事になされながら、承天寺も佛殿を新たに再建されたり、大きな功績を残され、更に東福寺の管長にもなられました。
臨済禅師の一千百五十年の御遠諱の時には管長でいらっしゃいました。
それでも老師らしくほとんで表にでることなく、お勤めになっていました。
老師からいただいた教えはたくさんあります。
御遷化になってもそのお声が聞こえてくるようであります。
横田南嶺