京の街を歩く
巻頭には、私が聞き手となって裏千家の家元千宗室宗匠に、お話をおうかがいしています。
この記事のためにおうかがいしたのは、七月一日で、とても暑い日でありました。
禅文化研究所の方からは、京都駅からタクシーを使うように言ってもらっていたのですが、修行時代を思い出して地下鉄を利用して今出川駅まで行って、今出川駅から裏千家今日庵まで歩いて行ったのでした。
暑い日のために、汗が噴き出てしまいました。
玄関先で身支度を調えようとすると、すでにお家元がお出迎えくださっていて、汗を吹き吹きご挨拶させてもらったのでした。
その後、鵬雲斎宗匠が、八月十四日お亡くなりになったのでした。
鵬雲斎宗匠には、円覚寺で献茶をしていただいたこともありますし、ご縁も深いので、お参りをしなければならないとずっと思っていました。
しかしながら、あれほどご高名な方がお亡くなりになると、いろんな方が弔問に訪れるでしょうから、うかがうのも控えていました。
いずれお別れの会などが開かれるでしょうから、その折に参列すればよいと思って、お家元にお悔やみの手紙のみ出させてもらっていました。
ところがお別れの会の案内をいただいたものの、その日は円覚寺で行事があって出かけることのできない日でした。
これは申し訳ないと思い、お供えを持って今日庵に出向くことにしました。
ちょうど妙心寺の僧堂の老師の開堂という儀式に参列するのと、禅文化研究所の運営委員会があるので、それに合わせて今日庵に参上したのでした。
朝早く修行道場で毎朝の禅問答などを終えて、小田原からひかりに乗車して京都に着きました。
今回も地下鉄を使って今出川駅に降りて、一キロほどの道のりを歩いて行きました。
今度は暑くもなく寒くもなく、心地よい秋の日差しの中を歩きました。
歩いていくと小川通りにさしかかりました。
この小川通りに懐かしい思い出があるのです。
まだ昭和の時代、私は建仁寺の修行僧だった頃です。
いまからもう四十年近く前のことです。
私は合米だったかと思いますが、一人で雨の中番傘をさして、素足に下駄履きで小川通りを歩いていました。
ちょうど小川通りにさしかかったときです。
裏千家の兜門の前に黒塗りの車が止まりました。
当時家元だった鵬雲斎宗匠が颯爽と車から降りて見えました。
お出迎えの方が、すぐに傘を開いて差し出していました。
家元はその傘を受け取って、門に入ろうとしたところ、遙か遠くを歩く修行僧の姿に気づかれたようでした。
その修行僧が私でありました。
すると家元はさっと傘を外して、私の方に向き直り深々と頭を下げられました。
そして門にお入りになりました。
そのお姿に私は衝撃を受けました。
その時に世間的には裏千家の家元と、一修行僧とでは雲泥の差であります。
それでも家元は、その修行している僧に敬意を表されたのでした。
鵬雲斎宗匠は、かつて大徳寺で修行もなされた方であります。
後藤瑞巌老師に参禅されていたのでした。
ご自身が実際に禅の修行をなさって来られた方だから、このように修行僧に丁寧に頭を下げられたのだと思いました。
また修行僧の頃は、托鉢していてこの小川通りを歩いていると、必ず裏千家の門からお若い方が出て見えて声をかけてくださり、おにぎりをいただいたのでした。
まだ二十代の私はお腹が空いていてそのおにぎりがとても有り難かったのを今も覚えているのです。
只今の家元に取材した折にも、その頃の思い出を申し上げたのでした。
そんな思い出のある小川通りであります。
車で入って門の前まで行っては申し訳ないのであります。
しみじみ一歩一歩あじわいながら今日庵に向かいました。
お若い方が門のところでお迎えくださっていました。
私などは、このごろお迎えくださることがあるので、先方には早めに着くように心がけています。
そうでないと長く待たせてしまうことになると思うからであります。
その日家元は、ご出向だとうかがっていましたので、玄関先で失礼しようとしましたが、中でお参りできるように支度をしていますと仰ってくださったので、中にあげてもらいました。
控えの間で、袈裟を着けて線香とお供えを持って仏間にお参りしました。
大悲呪という短いお経を一巻あげて鵬雲斎宗匠に御回向させてもらいました。
なんと有り難いことに家元ご不在で若宗匠がわざわざお出でになって応対してくださいました。
読経を終えて少し若宗匠とお話させてもらいました。
鵬雲斎宗匠とのご縁を聞かれましたので、まず修行僧の頃の小川通りで出会ったことを話しました。
それから建仁寺で修行していた頃、鵬雲斎宗匠が開山忌に献茶に見えてくださったので、お茶を出したりお昼のお給仕をさせてもらったこともあります。
私が円覚寺の管長になってからも一度寺で献茶をしていただいたことがありました。
釈宗演老師の百年諱に向けて諸行事を行っている時でした。
お献茶いただいたのは、二〇一四年のことでした。
九十一歳の大宗匠が御自らお越しくださいました。
それは参禅された師匠である後藤瑞巌老師は、釈宗演老師の孫弟子に当たるからであります。
鵬雲斎宗匠はこの禅の法灯を重んじられていらっしゃったのでした。
それから裏千家の初釜ではいつもご挨拶をさせてもらっていました。
鵬雲斎宗匠に最後にお目にかかったのは、今年の一月致知出版社の新春講演会の時でした。
控え室には大勢著名な方がいらっしゃるので、私は挨拶せずに控えておこうと思って隅っこに坐っていました。
しかし、私の姿に気づかれた大宗匠は、すぐ私の隣にみえて親しくお話くださいました。
そんな思い出を少しお話して、お抹茶をいただいておいとましました。
そのあと禅文化研究所に行くのに、堀川通りにでました。
タクシーを使うことやバスに乗ることも考えましたが、修行僧だったころよく歩いたことを思い出して歩くことにしました。
京都の街は碁盤の目のように東西南北の方向がはっきりしていますので、道を間違えることはありません。
堀川通りを丸太町まで出て、丸太町通りを西に向かって歩いて西小路通りまで行けばすぐに花園大学です。
荷物をもって法衣姿で歩くと、汗ばむほどでありました。
およそ四キロの道を一時間で歩いていったのでした。
修行僧の頃を思い出して京の街を歩いたのでした。
横田南嶺