法話と研修
檀信徒の皆さんを対象にした法話を一時間、そして和尚様達の研修会の講義を一時間、更に質疑応答を一時間少々行ってきました。
気がつくと三時間半ほどしゃべっていたことになります。
さすがに少々疲れたものでした。
それでも法話を皆さんが熱心に聞いてくれて、そして研修会もとても熱心に聞いてくださったので、心地よい疲れでした。
主催をされた和尚様が熱心な方だからだと思いました。
平日の昼間の法話でしたので、どれくらいの方が集まるのだろうかと思って参りましたら、大きな本堂に満席でありました。
話をする方が外の廊下になるほどの大勢であります。
何人いようが話をするのは同じで、少ないからとか、多いからとかに関わりがないのですが、やはり満席の会場に入ると一層気合いが入るものです。
こちらも熱が入ります。
このところ京都に行くとお参りしている西本願寺の朝のお務めの話から始めました。
共に
花咲けば
共に眺めん
実熟せば
共に食わん
悲喜頒(わか)ち
共に生きん
共に生きると題して一時間お話しました。
そのあとは和尚様方十数名の研修会であります。
研修会でもいろいろありますが、この研修会は学ぼうという有志の方の集まりです。
ですから皆さんが学ぼうという熱意にあふれている方であります。
これもとてもやりやすいものです。
一時間は「禅とは何か」、唐代の禅から宋代の禅へ、そして宋代の禅が鎌倉時代に入ってどのように変遷して現代に至るのか禅の歴史の流れをお話しました。
やはり思想の流れを学んでおくと、今現代の問題にどう対処したらいいか、道が自ずと見えてくるはずだと思ったからでした。
そのあとは質疑応答です。
三〇分の予定が一時間を越えたのでした。
質問が多いのはありがたいことであります。
研修会を終えた翌日とある方と話をしていて、前日和尚様方の研修会で話をしたという話題になりました。
同じ仕事をしている方への話というのは難しいしやりにくいでしょうと言われました。
そう言われて、たしかに私も和尚様方への話はやりにくいと感じていたものです。
しかし、気がついてみればそれはもう過去形になっていました。
今はそう感じることはないのです。
やはり場数かもしれません。
今回は熱意ある方々の集まりですから良かったのですが、研修などの場合、あまり熱心でない方も参加されていることもあります。
そうしますと気になるものですが、熱心でない方がいる反面、必ず熱心な方がいらっしゃるものです。
その熱心な方へ届けるつもりでお話すればいいと思っています。
それに気がついてみれば、その研修会に参加されている和尚様方はみんな私よりお若いのでした。
どんなことを聞かれても、今まで六〇年生きてお坊さんの世界にも四十年以上勤めてきて、いろんなことを経験してきましたので、ほとんどのことはその経験の範囲内のことなのです。
今までは年上の方に話をしなければならないので気を遣ったものですが、気がつくと自分よりお若い方々に変わっていました。
それで自由に思うことをお話させてもらえるようになったのでした。
これも年の功なのかと思いました。
はじめの質問にこんなことを聞かれました。
お若い和尚様ですが布教師でもあり法話もなされるのだそうです。
その時の講義でも唐代の禅の特徴としてありのままに生きるということを伝えていました。
その和尚様も、「ありのまま生きることが大切です。ありのままに生きましょう」とお話されることがあるそうです。
そしたら二年程前に、一般の方から、「ありのままに生きるというのは、具体的にはどういう生き方でしょうか」と聞かれたそうです。
それからずっと二年考え続けているというのです。
「ありのままに生きるというのは、どういう生き方なのでしょうか」という質問でありました。
これは難しい問題です。
そしてとても大切な問題でもあります。
ありのままとは何か、『広辞苑』には「事実のまま。実際のありさまの通り。」と解説されています。
「今のあなたのままでいいのですよ」という言葉が相手にとって救いになることもあります。
ありのままを是認することは素晴らしい一面があります。
一所懸命に頑張って努力してそれでもうまくゆかなくて傷ついて落ち込んでいる時にありのままでいいというのは有り難い言葉です。
しかし、ただ怠けているだけの人がありのままでいいと思って怠けたままでいいかというとこれは問題でしょう。
ありのままというのは、私は人間としてもって生まれた本来の尊さに目覚めることだと受けとめています。
そこで体の話から始めました。
今の姿勢のままでいいのかというと、たいがいは問題あります。
今イスに坐っている状態が、腰が抜けて背中が丸まって猫背で巻き肩になって、首が前に落ちている状態でありのままと思われても困ります。
やはり赤ん坊の時から立ち上がった時のような姿勢がいいのです。
それをありのままと呼びたいのです。
食べ物でもそうです。
乱れた食生活をしていて、ありのままでは困ります。
やはり食生活を正してこそありのままです。
睡眠でもそうです。
眠れないという状態のまま、そのままでいいというのではありません。
やはりぐっすり眠れる人間本来の状態のありのままであります。
ありのままというのは唐代の禅僧馬祖禅師の説かれた「平常」でいいという教えです。
馬祖禅師の説かれた「平常」とは造作をしないことです。
本来もって生まれたもので満ち足りているので、なにも余計なことをしないのです。
その本来もって生まれた尊さに目覚めて生きるのが、禅でいうありのままに生きることだと私は受けとめています。
そこで今の私たちはありのままになるには、いろいろ矯正や修練が必要になってくるのだと思います。
私がイス坐禅で目指しているのは、そのように調った姿勢になってありのままでいいと感じてもらうことなのであります。
横田南嶺