小さな灯りになってください – ラジオ喫茶去 –
毎回龍雲寺の細川晋輔さんと須磨寺の小池陽人さんとで話をしています。
別段台本もなく、なにかを話そうという訳でもなく、お互いに近況を語り合ったりして、それから質問に答えたりしています。
小池さんが最近、はっぴーの家ろっけんの首藤義敬(よしひろ)さんとYouTubeやVoicyのラジオで喫茶混沌というのを始めておられます。
毎週開催してくださっていて、これを拝聴するのがとても楽しみであります。
お互いに実に寛いだ様子で、いろんな問題について話し合い、そしてそれが時に真実を突いている話があったり、深く考えさせられる話があったりして、勉強になるのです。
先日も「自分に厳しい人は他人にも厳しくしがち」というテーマでお話されていました。
これはとても難しい問題です。
我々修行の世界でも熱心に修行している人が、熱心でない人にとても厳しくなったりすることがあります。
ただこれは仏教的にいうと、すでに慢心なのです。
熱心に修行している人が怠けている人をみて、駄目だとか、なんとかしようと思うのは既に他と自分を比較して、自分の方がましであると思っているので、慢心なのです。
自分の慢心に気がつくというのはとても難しいのです。
私たち三人のラジオも出来れば毎月一回くらい行いたいとおもっているもののなかなか三人の日程を調整するのが難しく、前回行ったのは六月でありました。
四ヶ月ぶりとなります。
まずいつものようにお互いに近況を話しました。
その前の日の晩に仏教伝道協会の創立六十周年の祝賀会に細川さんも私も出席していてその話題から話が始まりました。
会場には白川密成さんもいらっしゃってご挨拶させてもらいました。
それから釈徹宗先生にもお目にかかりご挨拶ができました。
釈先生はご高名な先生で、私よりも三歳年上でいらっしゃいます。
相愛学園の学園長であり武蔵野大学の総長でもあります。
私は花園大学の総長ですので、大学総長の名刺も出してご挨拶させてもらいました。
小池さんがなさっている法話グランプリの審査員長でもあります。
法話グランプリの話題にもなりました。
須磨寺で歴代法話グランプリを取られた方の法話会がなされたそうです。
そのあとのアンケートに、小池さんの話は何度も聞いているので新鮮味がなかったと書かれていて、小池さんは考えさせられたというのです。
同じ話をしてもどれだけ相手に伝えられるかというのは大事なことですが、難しいことです。
細川さんは、松原泰道先生が、一話百回ということを強く仰っていたと教えてくださいました。
一つの話を百回はなさるというのです。
それほど同じ話をしてこそ、その話が板につくのでしょう。
私も先日細川さんがオンライン坐禅会でなさっていた雪丸令敏老師の話に触れました。
何度かうかがった話なのですが、何度聞いてもあじわいがあります。
また聞くたびにあじわいが深まるのです。
細川さんが京都の妙心寺で御修行なされたときの老師が雪丸老師でした。
ある時に細川さんが雪丸老師のお供をしてタクシーに乗ったそうです。
すると、そのタクシーの運転手さんが老師に「悟りって何ですか」って聞かれたそうです。
雪丸老師というお方は中学を出て大工さんになっておられて、十八歳の時に自分の命を見つめるために九州を一周していた時に、高崎山の猿山で行き倒れになっていて、猿山は臨済宗のお寺が管理されているところで、そこで和尚さんとご縁ができてお坊さんになられて修行された方です。
私も心から御尊敬申し上げる老師でありました。
そんな老師に悟りってなんですかと簡単に聞けるものではありません。
その時に老師はお坊さんになって一生懸命修行したら人の心が読めたり、また空が飛べるような超能力を得ることができると思っていたということからお話をなさったそうです。
一生懸命修行されて数十年経って、気づいてみたら、お茶を飲んだり、エヘンと咳払いをしたり、こうして生きていることがまさに超能力であったと気がついたという話なのです。
先日うかがっても私はまた新たな思いで心にしみてきました。
同じ話を聞いても聞いている方が変わってゆきますし、成長してゆけばまた受け止め方が深まるのです。
そんな話をしていました。
そうしましたらまた小池さんが素晴らしい話をしてくれました。
小池さんは先ごろ高野山にお参りになさったそうです。
そこで大勢の方と授戒されました。
戒を授けてもらうのです。
それが真っ暗のお堂でなされるのだそうです。
そうしたら、そのあとある方が小池さんに会いに来てくれたのでした。
その方も高野山で授戒を受けられたことがあるそうです。
なんでもその息子さんがギャンブルにはまって多額の借金を背負ってどうにもならなくなり、その方も暗い気持ちになって家を出て高野山に行かれたのでした。
それが大雨の中だったそうで、ケーブルカーが止まっていて、臨時のバスでお山に登ったそうです。
お堂で授戒される人も他に誰もいなくいてお一人でした。
真っ暗な中で法話が聞こえてきました。
その話に救われたというのです。
このように暗闇の中にいる時に、一つの小さい灯りで、大きな支えになり、拠り所になります。
人生も一緒で、真っ暗闇の中にいても、一つの灯りがどれだけありがたいことかはかりしれません。
あなたもその小さい灯りとなってくださいという法話だったそうなのです。
暗闇の中で小さな灯りが頼りになるという話は私もすることがあります。
そして私は、そのあと、皆さんも暗闇の中で小さな灯りを見つけてくださいと申し上げます。
でもこのお話は「小さな灯りを見つけてください」ではなく「小さな灯りになってください」というのです。
この違いに感銘を受けました。
その方もこの話を聞いて、息子さんにもう一回やりなおそうと話をしてご主人の経営されている会社に就職させて少しづつ借金を返済してゆかれたのでした。
「小さな灯りになってください」とは良いお話です。
そう思うことによってその人自身も救われていくのだと思いました。
灯りとなって生きる、その発願の尊さを学びました。
横田南嶺