明日は釈宗演老師のご命日
明日は十一月一日です。
十一月一日というと、なんといっても釈宗演老師のご命日であります。
午前中は、宗演老師のお墓のある東慶寺様で、法要を行います。
午後からは円覚寺で釈宗演老師特別展を開催していますので、それに因んでお話をさせてもらいます。
午後2時からの予定をしています。
特別のご案内もしていませんので、少人数でその時お集まりになっている皆さんにお話させてもらおうと思っています。
人数が少なければ、実際に展示されている墨蹟の前で解説などもさせてもらえたらと思っています。
釈宗演老師は安政六年一八五九年福井県高浜のお生まれです。
十二歳で京都の妙心寺で越渓老師の弟子になっています。
越渓老師も高浜生まれでありました。
越渓老師は、文化六年一八〇九年のお生まれです。
禅僧には得度の師匠と法を嗣ぐ師匠と二人の師がいますが、宗演老師にとっては越渓老師が得度の師であり、今北洪川老師が嗣法の師であります。
越渓老師は十歳のときに小浜の常高寺で出家されて、岡山の曹源寺で儀山禅師について修行してその法を嗣いでいます。
更に相国寺で大拙老師についても修行をなされました。
今北洪川老師は、文化十三年一八一六年のお生まれです。
越渓老師よりは七歳お若いのです。
越渓老師は儀山禅師について修行されて、三九歳のときには丹後の智恩寺で開講なされていますので、その頃には儀山禅師の印可を得られていました。
洪川老師が儀山禅師のもとに参じるのは、三二歳の時ですので、お二人は同じ儀山禅師の法を嗣ぎながらも、曹源寺ではすれ違いだったように思われます。
この儀山禅師のもとには、後に宗演老師も参禅されています。
越渓老師は儀山禅師のもとで修行を仕上げられて、更に相国寺の大拙老師に参じていました。
洪川老師ははじめこの大拙老師に参禅して後に儀山禅師に参禅していますが、その反対であります。
ただ大拙老師はすでに病の身であって、越渓老師が代参となって修行僧の指導に当たっていました。
それから妙心寺に迎えられました。
明治元年に妙心寺にお入りになって、天授院にて開講されました。
宗演老師が越渓老師のもとに来たのは明治三年のことでありました。
まだ僧堂が開単されて間もない頃であります。
十五歳のときには建仁寺の俊崖老師について仏教の勉強と坐禅の両方をやっていたようです。
建仁寺にいた頃の有名な話があります。
師匠の俊崖老師がある夏の暑い日に外出しましたのを見て、宗演老師はこれ幸いと本堂の廊下で大の字になって昼寝をしたというのです。
暑い日に広い廊下で横になると涼しくてとてもいい気持ちなのです。
ところが、まだ眠りにつく前ぐらいに、何か忘れ物でもしたのか俊崖老師が帰ってきてしまいました。
しかし宗演老師はもう大の字になって寝ているものですから、この期に及んで起き上がるのは往生際が悪いと思い、「なるようになれ」と腹を決めて横になったままでいました。
すると帰って来たお師匠さんは、宗演老師を蹴飛ばして怒鳴るかと思ったら、小さな声で「ごめんなされ」と言って足のところをそぉーっと跨いでお部屋に行かれたというのです。
これには宗演老師は非常に感激して、師匠たるものはどのようにあるべきかということをそのときに知ったと書いています。
普段は確かに厳しいことを言っていても、こういうときに愛情を示すのです。
たとえ小僧であっても頭から怒鳴ったりせずに「ごめんなされ」と言って足下を通っていく。こういうところに宗演老師は師匠の愛情を感じたのです。
この頃宗演老師の自伝には「この時分私より年長で而も時々私を引き立ててくれた人が今の建仁管長竹田黙雷」と記しているように黙雷老師には随分お世話になったようであります。
お二人の書簡のやりとりも今に残されています。
明治八年俊崖禅師がご遷化になると、臘八追悼摂心が催され、若き宗演老師も開山塔菩提樹下に徹宵夜坐して、大いに得る所があったようです。
「袈裟下に箇の大事あるを省したは正に此の時」と自伝に記されています。
黙雷老師にも大いに激励してもらったようなのです。
その後お二人は大成されて、同じ明治二十五年にそれぞれ管長に就任されたのも奇しき因縁と思います。
そして十九歳のとき、曹源寺の儀山善来禅師について修行をしました。
宗演老師がついたときにはもう晩年だったものですから満足な指導は受けられなくて、明くる年の明治十一年、数え二十歳のときには円覚寺に来て、洪川老師について修行を始めます。
宗演老師は怜悧俊発の典型であると言われますが、その言葉どおり、わずか正味五年間で洪川老師から「印可」を受けます。
「印可」というのは修行が全部終わったというしるしですが、それを二十五歳のときにいただくのです。
印可を受けるのは三十代でも極めて早いといわれます。
四十、五十というのが当たり前です。
それを二十五歳のときに印可を受けたわけですから、これはとても珍しいことです。
洪川老師のあとの円覚寺の管長になっていくということが、この時点でもう決まっていたようなものなのです。
そのあと二十六歳のときに永田僧堂という、横浜の保土ヶ谷近在に永田という場所がありますが、そこの宝林寺にあった東輝庵の僧堂で『禅海一瀾』という洪川老師の語録を提唱します。
この同じ年、宗演老師は一時期、北条時宗公のお寺である円覚寺塔頭の仏日庵に住職としてお入りになられていました。
明くる年、明治十八(一八八五)年に、宗演老師は福澤諭吉のいた慶應義塾で学び始めます。
慶應義塾での修学を終えた宗演老師は、更に二十九歳のときにセイロン、今のスリランカに行きます。
セイロンからお帰りになってから明治二十五年一八九二年に洪川老師がお亡くなりになって、満三十二歳の管長となったのでした。
 
横田南嶺
 
            