釈宗演老師のご命日
円覚寺では釈宗演老師の特別展を開催しています。
本日は午前中に蓮沼直應先生の講演があります。
私も午後2時からお話をさせてもらうと思っています。
宗演老師は、今北洪川老師のもとで修行なされて明治十六年数え年二十五で印可を受けています。
そのあと明治十七年には横浜にある永田の宝林寺で『禅海一瀾』を提唱されています。
永田には月船禅師以来修行の道場ができていました。
東輝庵と言いました、
そこで宗演老師は修行僧達とともに率先垂範して托鉢して修行されていました。
その頃に七間に四間の禅堂も建立されています。
永田の僧堂では真浄老師がいらっしゃいました。
この方は妙心寺の越渓老師の法を嗣がれた方であります。
まだ宗演老師が妙心寺の僧堂で小僧だった頃に、よくお世話してくださったのでした。
後に真浄老師は臨済宗大学、今の花園大学の初代学長になり、宗演老師はそのあと二代学長になられています。
明治十七年、秋に越渓老師がご病気で真浄老師と共に宗演老師はお見舞いに行かれますが、越渓老師は十月にお亡くなりになってしまいました。
明治十九年には真浄老師は清水の清見寺にお入りになりました。
この清見寺で真浄老師のもとで朝比奈宗源老師は得度されています。
明治十八年に円覚寺では開山仏光国師の六百年の大遠諱が勤められています。
宗演老師はそのころ仏日庵住職として侍衣の勤めをなさっています。
しかし宗演老師はそのあと同じ年には慶應義塾にお入りになっています。
そこで二年勉強し、更にセイロン、今のスリランカに行って修行をなされました。
帰国されたのが、明治二十二年三一歳の時でした。
宗演老師は再び永田の僧堂に戻って修行僧の指導にあたられていました。
そこで明治二十五年の一月に洪川老師はお亡くなりになってしまいます。
円覚寺は当時まだ満三二歳の宗演老師を管長に推戴したのでした。
管長と円覚寺の僧堂の師家を兼ねました。
修行道場では臨済録を開講されています。
しかし宗演老師は、なんと明治二十七年に管長の辞表を出されています。
そこには当時の円覚寺の窮乏振りがうかがえます。
管長に就任なされて布教伝道に努めていたのでしたが、本山は大事な宝物を手放すような計画もあったようです。
伽藍はいたんで荒れてしまい、塔頭も廃絶しなければならないかというほどだったようです。
これらの衰退を宗演老師は自らの不徳のいたすところと辞表をだされたのでした。
当然のこと辞表は受理されませんでした。
管長は任期制ですので、一期が終わる頃に、次の管長の候補者が数名選ばれました。
宗演老師も当然候補にはいっていますが、自分は候補から除外するように申し出ています。
これも受理されるはずもなく明治三十年に管長に再任されました。
その頃の宗演老師のことを思うと、三十代で管長になられてご苦労されていたのだと推察されます。
正続院の僧堂と永田の僧堂を充実させ、般若林という学林で徒弟の養成にも力をつくされました。
学林は建長寺と円覚寺と両山で共立して、宗演老師が校長となっていました。
この学林は宗演老師が校長を辞して後に解散しました。
後には建長寺の学林となって今の鎌倉学園となっています。
それでも明治二十六年にはシカゴの万国宗教会議にも出ていらっしゃるのです。
宗演老師は八月四日に横浜を出て、シカゴに着いたのは二十一日だったといいます。
長い船の旅であります。
宗教会議は九月十一日から始まりました。
十七日間開催されました。
宗演老師の演説は会議の八日目に発表されました。
宗演老師の最初の演説「仏教の要旨並びに因果法」を分かりやすく意訳した文章を『釈宗演と明治 ZEN初めて世界を渡る』(ぷねうま舎)から引用します。
「諸君、無限の時間に繫がり、はてしない空間にあるすべてのものは、何からできたのでしようか。
私の見るところに拠れば、まさしく心の二つの原因からできているのです。
すなわちその二つの原因とは、性と情でありますが、性はわれら生けるものに生まれながらにして具わっている悟りの真性であって、一切のものが住み家としている万物の本体であります。
それを大智度論には、一切の形あるものは空であって、諸法の内なるものは皆、悟りを開く本性を具えている。
これを仏法の根本、あらゆる存在に実体はないという真理そのものと名づけています。
情はわれらが意識せざる思いで、妄想の別名であります。
これを大智度論では五情(眼、耳、鼻、舌、身)の所欲といっております。
そこでこの妄念が起こつてくると、自分と他人とを区別し、能動と受動など、二元相対のさまざまな世界が生まれてきます。
こうなると内には妄想が渦巻き、よって紛然として争いが絶えることはない。
もともと一枚の世界であるのに、外に上下に階層をなす、空気、水、大地と、最下層をわざわざつくりだし、元来空であるのに凝集して山石があり、生え出でて草木があると錯覚している。このように経文に說かれています。」
と説かれています。
このような演説に多くの聴衆は引きつけられたのでした。
このことが機縁となって鈴木大拙先生が渡米されました。
明治三十年のことです。
更に明治三十五年には宗演老師と渡米した野村洋三のご縁によってサンフランシスコの大家具商ウィリアム・ラッセル夫人が、その友人ドレッセル夫人とともに円覚寺に来て宗演老師に参禅されました。
ラッセル夫人のはからいで宗演老師は明治三十八年再び渡米されました。
円覚寺の管長を辞してのことでした。
アメリカではルーズベルト大統領にも会っています。
そのあと世界を一周してまわるのです。
帰国の後も伝道布教に大いに勤められたのでした。
大正五年に再び円覚寺の管長に就任なされましたが、大正八年にお亡くなりになりました。
十一月一日午前十一時のことでありました。
わが身には昨日もあらず今日もあらず
ただ法の為つくすなりけり
ゆめの世にゆめの此身のしばしありて
み法をぞ説く天地の為
人のため世のためつくる罪ならば
我は厭はじ地獄の火をも
宗演老師の和歌であります。
横田南嶺