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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.10.30
今日の言葉

十牛図

この十月二十日から修行道場で十牛図の講義を始めました。

これは修行僧から十牛図を聞きたいという要望があってのことです。

すでに十牛図は何度も講義をしているのですが、今修行道場にいる者たちは聞いていないのであります。

長年こういう勤めをしていると、何度も講義していると、聞いている方も何度も聞いているように思ってしまいます。

修行僧は入れ替わるので、初めて聞く人ばかりになってしまっていたのでした。

十牛図については本も出しています。

丸善ジュンク堂書店の公式ホームページで、栗山英樹さんが毎月3冊ずつ、おすすめ書籍を紹介されています。

「栗山英樹書店」というのです。

そこでちょうど私の『十牛図に学ぶ 真の自己を尋ねて』を紹介してくれたのでした。

実にありがたいことであります。

栗山さんが読んでくださっているだけで有り難いのですが、このように紹介してくださるとは光栄です。

そこには、

「『十牛図』では「本当の自分」を牛にたとえ、真の自己を尋ねる旅を、牛を探してゆく道として表しています。

牛を見失った、つまり自分の本心を見失った迷いの状態から、旅に出て、探していた牛の足跡を見つけ、ようやく出会うのですが、旅はそれで終わりではありません。

気づけば牛も自分さえもいなくなり、ついには何もなくなって、山から町に出る……。

 読み進めていくうち、己の心にある弱さや自分勝手な部分を思い知らされ、しかしそれを素直に認められるようになると、心の垢がどんどん洗い流されていくようで、本当に目の前が明るくなります。

怒りの感情も小さなうちならすぐに消せますが、それに気づかなければどんどん深みにはまっていきます。

すべての苦しみや迷いは外からではなく、自分の心が作っているのです。

 牛を見つけてからが大切なのだ。その気づきは、私にとって大きな「前進力」となりました。」

と書いてくださっていました。

今私たちが読んでいる十牛図は廓庵和尚のものです。

廓庵和尚は五祖法演禅師のお弟子である大隋元浄のお弟子にあたります。

大隋禅師が一一三五年に亡くなっていますので、十二世紀頃の方であります。

東福寺の開山聖一国師が、日本に伝えてきたと言われています。

十牛図の序文には、

「さきごろ清居禅師という人が、人々のもつ様々の能力を見通して、病気にふさわしい治療を与えるように、牛を飼いならすのにたとえて図を描き、相手の根性に応じた教えを立てられた。

まず、黒い牛がだんだん白くなるところからはじまって、修行の力がまだ充分でないことを表わし、さらに完全に真実となって、能力がだんだんと円熟したことを表わし、最後には、人も牛も姿を見せないところに至って、とくに心と教えがともに消えたことを標わしている。

その論理は、完全に根底のところを明かしきっているが、その教えは、まだ幻想のかくれみのを残している。」(筑摩書房『漸の語録16信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』より)

と書かれているように既に十牛図は描かれていたのでした。

この清居禅師という方は曹洞宗の洞山禅師の法系であります。

この清居禅師の十牛図が十分に意を尽くしていないので、廓庵和尚は十牛図を作ったということであります。

日本では廓庵和尚の十牛図が流行したのですが、中国においては普明禅師の十牛図が盛んに読まれたようです。

この二つを比べると大きな違いが分かります。

普明禅師の十牛図でははじめ「未牧」といってまだ飼い慣らされていない牛の絵から始まります。

それからだんだんと飼い慣らされてゆきます。

まず特徴的なのは、はじめは真っ黒い牛だったのが、飼い慣らされてゆくとだんだんと白くなってゆくのです。

色がうすくなっていくのではなくて、頭のあたりから白くなってゆきます。

胴体もだんだんと白くなって、最後には完全に真っ白な牛になります。

そこで更にその牛もなくなってしまい童子だけの世界になります。

そして最後には何もなくなって一円相になって終わるのです。

なにもかも無くなった一円相の世界は廓庵和尚の十牛図ではまだ八番目になっています。

そのなにもなくなった一円相で終わるのではなく、そのあと更に花咲き鳥鳴く大自然が描かれます。

最後には布袋さんになって街に出てくる姿で終わるのです。

山田無文老師は禅文化研究所の『十牛図』で

「何もかもむき出しだ。

隠すものは何もない。

上着は何もいらん。レッテルは何もいらん。

毛むくじゃらの胸を出して、へそまで出してしかも素足で新開地やら福原へ出かけていく。

そして、あまり荘厳な悟りきった顔をしていると、みんながこわがるから、修行のできたような顔もせず、学問のあるような面もせん。

まるで、顏に土を塗り、灰をかぶったような、大バカになってニタリニタリと笑っておるのだ。

その顔は、それは何とも言えん。「笑い腮に満つ」だ。

腮のはずれるほど笑う。

そういう笑いに触れたものがみんな善心に帰って、仏性を自覚するのである。

説教をせんでも、提唱をせんでも、この坊主の顏を見るというと、みんなが救われてしまう。」

と提唱されています。

なにもかも無くなって清浄そのもの世界から、こういう現実の世の中に戻って人々を無心に導いていくのを理想としているのです。

また新たな気持ちで十牛図に取り組んでいます。

 
横田南嶺

十牛図

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