ふかく
不覚を取るというのは、「油断や不注意で、思わぬ恥をかいたり失敗したりする。」ことを言います。
『広辞苑』の解釈です。
「まさかの相手に不覚を取る」などと使います。
一生の不覚だという言葉も使います。
不覚という言葉は日常でも馴染んでいるといえます。
不覚にどんな意味があるのか『広辞苑』には
精神がまともでないこと。正体もないこと。
「前後不覚」という場合です。
思慮・分別のしっかりしていないこと。
思わず知らずすること。「不覚にも弱音を吐く」という場合です。
不注意や油断によって失敗すること。「不覚の一敗」といったりします、
覚悟のできていないこと。臆病なこと。
という意味があります。
そもそも「覚」という言葉には深い意味があります。
『広辞苑』には、
①感ずること。おぼえること。「視聴―」
②〔仏〕悟り。悟りの智慧。覚悟。
と二つの意味が書かれています。
仏教では覚は悟りや悟りの智慧を表す言葉なのです。
岩波書店の『仏教辞典』には詳しく解説されています。
まず「中国語としての<覚>は、『荘子』斉物論に「大覚」を「大夢」と対せしめているように、<目ざめ>もしくは<悟り>を意味するが、仏教でも<さとり>と訓読され、真理に対する覚醒、もしくは認識能力のある種のはたらきを表す。」
とあります。
たしかに漢和辞典で調べてみると
「覚」には
おぼえる。ぼんやりした意識が、はっとかみ合う。いろいろな感覚がかみ合って、一つにまとまる。意識する。
さとる。さとす。さとり。はっと気がついてそれを理解する。わからせる。そうかと思いあたること。
人に知られる。気づかれる。
さめる
などの意味が書かれています。
仏典では「覚」は梵語のボーディの訳として用いられました。
音を写すと菩提です。
悟り、もしくは悟りの智慧を表します。
菩提樹を覚樹といいますし、仏の悟りである阿耨多羅三藐三菩提を無上正等正覚と訳します。
更に『仏教辞典』では
「覚と不覚」について書かれています。
「『大乗起信論』では、阿頼耶識に覚と不覚の二義があるとし、覚をさらに始覚と本覚とに分けて説明する。」
と書かれています。
阿頼耶識とは難しいものですが、「人間存在の根底をなす意識の流れ」を言います。
われわれの意識には目覚めた状態である「覚」と目覚めていない状態の「不覚」とがあるというのです。
『仏教辞典』には「われわれの心性(しんしょう)は、現実には無明に覆われ、妄念にとらわれているから<不覚>であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が<覚>である。」
と解説されています。
そしてその覚には「本覚」と「始覚」とがあります。
「本覚」は「衆生に本来そなわっている清浄な心のこと」を言います。
「始覚」は「凡夫が実際に修行して、悟りを開き仏になること」です。
私たちは本来清らかな心を持っているというのが本覚です。
しかし現実には煩悩によって迷っているのが不覚です。
そこで修行して初めて本来の清らかな心に気がつくというのが始覚となります。
『仏教辞典』にも
「われわれの心性の根源は本来清浄な悟りそのもの(本覚)であって、それがたまたま無明に覆われていただけのことであるから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、という。」と説かれています。
「本覚思想」となると少し意味が変わってきます。
『広辞苑』にも「中世の天台宗で流行した思想潮流。主として口伝によって伝えられ、現象世界そのものを真理の現れとし、現実の絶対的肯定を説く」と説かれています。
現象世界そのものを真理の現れであるとしているのです。
『仏教辞典』にも
「東アジアにおいて展開した仏教思想の一形態。比較的近年に一般化した用語であり、そのために研究者によって定義が異なり、必ずしも合意を見ていない。」と書かれています。
「狭義には日本の中世天台において展開した本覚門の思想を指し、<天台本覚思想>とも呼ばれる」ものです。
「その思想の特徴は、あるがままの現象世界をそのまま仏の悟りの世界と見るところにある。そこから、極端になると凡夫は凡夫のままでよく、修行の必要もないとされる。そのために、一方でその高度な理論的達成が高く評価される反面、堕落思想としてしばしば批判の対象ともされる。」
とも解説されています。
本来仏であるとは禅でもよく説かれています。
白隠禅師の坐禅和讃の冒頭の一句がそうです。
衆生本来仏なり
なのです。
しかし坐禅和讃でも現実には、
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
であって、迷いの世界をさまよっています。
それが
直に自性を証すれば自性即ち無性にて
すでに戯論を離れたり
とありますように、自己の本性を悟るのです。
本性は無性である、無我であると気がついたら迷いの世界から覚めます、
そこではじめて
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
となります、
道元禅師もはじめ比叡山で修行されていて、この本覚思想に触れて悩みました。
「本来本法性 天然自性身」という言葉に出会います。
人は生まれながら仏であるという意味です。
それならば何故に悟りを求めて修行するのかというのが若き日の道元禅師の疑問でした。
この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、
いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。
と後には述べられています。
悟りの智慧は本来誰しも豊かに具わっているけれども修行しなければ現れないし、悟らないと得ることはないというのです。
ただしこの証というのは、道元禅師の場合は行として体現することです。
それが本証妙修といって、悟りを得るための修行ではなく、悟りそのものが修行として現れていると説かれています。
横田南嶺