鏡をみがくようなもの
二十日の午前中に開講といって、講義の始めを行いました。
今制は十牛図をまず学んでみます。
十牛図については何度も講義をしていますが、最近はあまりやっていなかったのでした。
修行僧の中から十牛図について聞きたいという要望があったので、講義をすることにしました。
まずは序文を読んでみました。
「夫(それ)れ諸仏の眞源は衆生の本有なり。」
という一文から始まります。
訳しますと、「諸仏がそこから出てきた真実の根源は、生きとし生けるものが始めからもっているものである」ということです。
更に
「迷いに因るや三界に沈淪し 、悟りに因るや頓に四生を出ず。」と続きます。
「それを見失ったために、三界に落ちこみ、それに気付くときは、一挙に四生を脱出するのだ。」
という意味です。
私たちの心の本源と仏さまの源とは同じなのです。
私たちの心の外に仏さまがいらっしゃるのではありません。
よもすがら仏の道をたずぬればわが心にぞたずね入りぬる
という古歌がありますが、その通りなのです。
我が心の源は何かを尋ねてゆくのが修行でもあります。
開講の偈の中で
衆生の本有、須く窮尽すべし
諸仏の真源、大光を放つ
と読んでみたのでした。
午後からは小川隆先生の中国禅宗史入門講義を行ってもらいました。
1時間半にわたって講義をしてくださいました。
今回で三回目であります。
初回は敦煌文献についてのお話で終わってしまいました。
二回目は達摩様の教え、二入四行などについて学びました。
そして今回は、「神秀と「東山法門」」についてのご講義でありました。
まず私たちは達磨大師から二祖慧可大師、三祖僧璨禅師、四祖道信禅師、五祖弘忍禅師から六祖慧能禅師と伝統の系譜があると当たり前に思っています。
それがなかなかそうではないのです。
まず達摩大師が慧可に伝え、慧可が僧璨に伝え、僧粲が道信伝え、道信が弘忍に伝えたという系譜がはっきりととかれているのは、法如禅師(638―689)の「行状」が最初だというのです。
それまでの『続高僧伝』から読み解けるのは、達摩―慧可―僧璨―道信という系譜と、道信―弘忍という二つの系譜なのだそうです。
そしてその二つは断絶したものだったのでした。
それがひとすじの系譜として説かれているのはこの法如の資料だそうです。
法如という禅僧はあまり知られていないのですが、則天武后に見いだされたのでした。
則天武后は中国史上唯一の女帝であります。
洛陽を中心にして政権の掌握に勤めました。
洛陽を神都とし、洛陽に近い嵩山を神岳としました。
小川先生の『中国禅宗史』によれば、
法如は「「行状」によれば、師の弘忍が六七四年(唐·咸亨五)に遷化した後、法如はしばらく淮南の地で教化を行い、やがて北上して嵩山少林寺に身を寄せた。
それから三年ほどの間は衆僧のうちに埋もれて目立つこともなく過ごしたが、それが六八五年(垂拱元)、にわかに担ぎ出され、ついに達摩以来の「禪法」を開示するに至ったという。
右の系譜は法如が自らの禪法の由来を示すために嵩山少林寺で宣言したものであり、それは当地の僧たちにとつて、初めて耳にするものであったに違いない。」
と書かれています。
しかし法如は、六八九年に亡くなります。
そのあと則天武后によって迎えられたのは神秀でありました。
小川先生の『中国禅宗史』には神秀が則天武后によって迎えられた様子が書かれた碑文を現代語訳してくださっています。
「久視の年、禪師はすでにご高齡であった。
宮中に招かれ、坐禪の姿を解くことなく武后に対面し、輿にかつがれたまま殿中にのぼった。
禪師は逆に武后のほうから拝礼を受け、宮中の人々に清らかなる教化を施した。
尊き仏道を伝える者には仕えるベき君主なく、すぐれた德を具えた者には、臣下としての礼法が当てはまらぬからである。
かくして禅師は「両京の法主、三帝の国師」と仰がれた。それは仏陀の再来のごとくに輝かしく、優曇華の開花に比せられるほど、希有でめでたきできごとであった。」
ということです。
「坐禪の姿を解くことなく武后に対面」したことも、
「輿にかつがれたまま殿中にのぼった」ことも、
そして「禪師は逆に武后のほうから拝礼を受け」たことも当時としては極めて異例な破格のことであったのでした。
わたくしなどは『六祖壇経』の話から学んできましたので、神秀というと慧能をもり立てる為の役になっていると思っていました。
しかし、実際には当時はたいへんな立派な方として尊崇されていたことが分かりました。
神秀禅師の一派を東山法門と呼んでいます。
東山法門の教えとして、『楞伽師資記』章に説かれている言葉を示してくださいました。
こちらは筑摩書房の『禅の語録2 初期の禅史Ⅰ』にある楞伽師資記の現代語訳を引用します。
「絶対の道理はもともとどこにもあまねくゆきわたっていて、完全に清净なるものとして始めより有り、何等かの条件の下に得られたのではない。
それは、あたかも浮き雲のうちに隠れた太陽の光のようなもので、雲や霧が消てしまえば、太陽の光はそれ自から現われ出るのである。
どうして、あらためて該博な学問や知識をもとめ、文献や言葉をあさりまくる必要があろうか、けっきょくは生死輪廻の世界にまいもどるだけのことだ。
口さきできれいごとを言って、人に聞かせるのを道だと思うなら、かれは名声や利益をむさぼることで、自から自分を損じ、他人を損ずるにすぎない。
また、それは銅製の鏡をみがくようなもので、鏡の表面についている塵が落ちてしまえば、鏡はもともと透明で清浄であるのと同じである・」というものです。
鏡は本来清らかなもので、塵やほこりがつかないように修行するというのはとても理解しやすいものです。
実際に修行するときには大切な教えであるとも言えます。
横田南嶺