黒
雪安居の入制であります。
その前の日は、かまくらエフエムのラジオに出ていました。
今年の一月から始めて、これで十一回目となります。
ごきげんラジオという番組で村上信夫さんと話をするのであります。
途中に音楽を掛けたりお便りを読んだりします。
私の出番は法話と禅語の紹介と坂村真民先生の詩を読むことなのです。
毎回お便りテーマがあるのですが、今回のテーマは「ブラック」ということでした。
これは一九八七年の一〇月一九日がブラックマンデーだったからだそうです。
ブラックマンデーを『広辞苑』で調べてみると、
「暗黒の月曜日。1987年10月19日の月曜日にニューヨーク証券取引所で株価が急落し、これを契機に世界的な株価暴落が生じたことをいう。」
と解説されています。
一九八七年というと、私は修行道場に入門した頃なので、その頃のことは全く頭にはありません。
ただ修行のことしか頭になかった頃でした。
ブラックマンデーも知らなければ、そのあと大韓航空機の爆破事件などもあったようですが。全く知らずに修行していました。
それから更に後に、消費税というのが導入されたのも知りませんでした。
千円の本を買っても、千三十円を請求されて、これが何だか分からなかったのでした。
ブラックというのは文字通り黒いことです。
『広辞苑』には、「コーヒーにミルク・クリーム・砂糖を入れないこと」という説明もあります。
ただブラックはあまりよい意味では使われていないようです。
「ブラック企業」というと、「従業員を違法または劣悪な労働条件で酷使する企業」という意味です。
「ブラック‐リスト 」というと、「要注意人物や危険人物を記載した一覧表。」をいいます。
「ブラック‐ユーモア」は「不安・不吉・残酷さ・無気味さを感じさせるユーモア。」のことです。
闇とか影とかあまりよい印象ではありません。
私の中のブラックというのをテーマにお便りを募集していました。
ところが、このお便りがほとんど来なくて、舞台裏ではずいぶん苦労していました。
ごきげんラジオは私ともうひとかた、土居裕子さんが担当されていますが、土居さんの時はファンが多くてたくさんの便りが届くようであります。
私は生来孤独でありますから、便りもないようです。
これを頼りないと言います。
そもそもブラックや闇というのは、人に言えないから闇なのであって、文章にしたりするとブラックでも闇でもないように思いました。
そこで人には誰にも言えないような闇を抱えているのでしょうと申し上げたのでした。
このブラックや闇ということから法話につなげてみました。
「松影のくらきは月の光かな」という句を紹介しました。
浄土真宗の村田静照和上は、
「松の影さえ見えりゃ、シメタもんじゃわなア」と仰ったという話があります。
松の影が見えるのは、月が上がったからだということなのです。
本当に真っ暗闇の中では、松の影も見えないのです。
松の影が見えるというのは月の光に照らされているということなのです。
人の心の中には貪りや瞋りや妬みや無知やという愚かな心が潜んでいます。
それに気がつくことが大切です。
本当にすべて真っ暗ならその愚かさにも気がつかないのです。
闇に気がつくことは光が射していることでもあります。
人もまた欠点に気がつくということは進歩している證でもあります。
仏教の修行でも、次々と心に湧いて起こる思考や感情などを只見つめることをします。
いろんな感覚が起こっては消えていくのを、ただ見守るようにします。
念が起これば即ち覚すということです。
念が起こったらそのことに気がつくのです。
思考、感情、感覚などを一つ一つ観察していると、それぞれ浮かんでは消える泡のようにみなやがては消えてゆくのです。
消そうと力まなくてもただ見ていると自然と消え去ります。
浮かんで消え、浮かんでは消えの繰り返しだということが見えてきます。
それは海の表面に起こる波のようなものです。
墓場までもってゆかなければならないような闇を抱えて生きているのがお互いなのです。
そんな闇に支えられてこの世界は成り立っているとも言えます。
そんなブラックの話をしていました。
禅語では、一遍上人の話をしました。
先月愛媛に行って道後の宝厳寺様を訪ねた話をしたのでした。
一遍上人の念仏は
となふれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ
という和歌が残されているように仏も吾も一体となった念仏なのです。
一遍上人は亡くなられる直前に、所持していた経典を書写山円教寺の寺僧にお渡しになり、その他の書物は『阿弥陀経』をお読みになりながら焼き捨てられました。
五十一年のご生涯で一冊の著書も残そうとはされず、ひたすら全国を遊行し「南無阿弥陀仏」の念仏札を人々に配る旅を続けられました。
そんな心境を「一代の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏となりはてぬ」と仰せになっています。
生涯で念仏のお札を配ったのが
25万1千7百24人だったと言われています。
その一遍上人の願いを受け継いで詩を作って配ろうとされたのが坂村真民先生です。
禅語では己身弥陀という言葉を紹介しました。
己の身が阿弥陀様だという意味です。
唯心の浄土と対になって使われます。
心がお浄土であり、この体が阿弥陀さまという意味です。
最後の坂村真民詩の紹介では、次の詩を読みました。
一遍智真
捨て果てて
捨て果てて
ただひたすら六字の名号を
火のように吐いて
一処不住の
捨身一途の
彼の狂気が
わたしをひきつける
六十万人決定往生の
発願に燃えながら
踊り歩いた
あの稜々たる旅姿が
いまのわたしをかりたてる
芭蕉の旅姿もよかったにちがいないが
一遍の旅姿は念仏のきびしさとともに
夜明けの雲のようにわたしを魅了する
痩手合掌
破衣跣の彼の姿に
わたしは頭をさげて
ひれ伏す
横田南嶺