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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.10.14
今日の言葉

仏にとらわれるのも魔

麟祥院の講座の翌日は朝早くから京都にでかけました。

花園大学の後期の授業であります。

禅とこころという講座で、毎月一回ですが、『夢中問答集』を読んでいます。

今回は「魔」について学びました。

魔とは『広辞苑』には、

「① (梵語māra)
〔仏〕修行や人の善事の妨害をなすもの。魔羅。

また、不思議な力をもち、悪事をなすもの。

② 不思議な力。神秘的なもの。恐るべきもの。

③熱中して異常な行いをする者。」

という意味が書かれています。

夢窓国師は『夢中問答集』において、

「問。仏法を修行する人が、ともすれば魔道(悪魔の世界)に入ってしまうというのは、どういうわけか。

答。仏道の障害となるものをば、すべてこれを魔業と名づけている。魔業をすれば、必ず魔道に入る。」

と明確に答えています。

仏道の障害となるものはすべて魔なのです。

どのような魔があるのか、そしてその魔を克服していくにはどうしたらいいかを学んだのでした。

どのような障害が起こってくるのかをあらかじめ学んでおくことはよいことです。

そのことを障害物競争の譬えで話しました。

障害物競走という競技があります。

どんな障害物があるのかをあらかじめ知っておくと対処しやすいものです。

逆にどんな障害物があるのか分からないと、いざというときに困惑してしまいます。

そこで修行をするのにどんな障害があるのかを知っておくことは大事なのです。

夢窓国師は、

「ここにその要領をとつて説明すれば、魔に二種ある。内魔と外魔とである。魔王やその手先の魔民など、外からやつて来て、行者を悩ますものをば、外魔と名づける。その魔王は欲界の第六天にいる。これを天魔と言っている。一般に天狗などと言っているのは、すなわち魔民に相当する。」

と説かれています。

現代語訳は、講談社学術文庫『夢中問答集』にある川瀬一馬の訳文を引用しています。

ここに天狗が出てくるのが興味深いものです。

天狗とはそもそも何でしょうか。

あの鼻の大きな羽の生えた大男を想像します。

『広辞苑』には

「①深山に棲息するという想像上の怪物。人のかたちをし、顔赤く、鼻高く、翼があって神通力をもち、飛行自在で、羽団扇をもつという。

②高慢なこと。自負すること。また、その人。」

という解説があります。

もともと天狗というのは中国の古典に出てくる天文現象の名前でした。

彗星や流星の異名でもありました。

それが、日本でもはじめは天文現象を言いましたが、山に棲む超自然的な存在を指すようになりました。

やがては、神通力をもちますが、慢心ゆえに堕した存在として描かれるようになりました。

高慢なことを天狗という意味に通じます。

夢窓国師は「世俗のことにばかりに執着して、仏法修行を怠っている人は、生死の苦しみを遁れることができないので、天魔もわざわざこれを障げない。」

と述べておられます。

一所懸命に修行するから、そこに障害が起こってくるので、努力しない者には魔もやってこないというのです。

これはたしかにそうで、修行僧でも頑張って修行している者に限っていろんな困難なことが起こってきます。

「魔は皆飛んで行くことが自由で、身体から光を放ち、過去未来の事もわかって、仏菩薩の形に化け、仏法を説くことも、まことに弁舌さわやかである。」

とも説かれています。

そんな魔がいると考えられていたのです。

「世間で、花を降らしたり、光を放ったりするのを、貴いという者がある。それは魔の世界に入っていること、疑いないものだ。」

とも説かれていて、そんなものも皆魔の仕業です。

とらわれてはいけないのです。

それらは外魔というものです。

更に内魔があります。

「このように、外魔がやつて来て悩ますことはないが、もしも仏道修行者の心中に煩悩が生じ、悪い考えにとらわれ、慢心を起こし、心の統一に耽り、知恵に誇り、あるいは二乗心に落ちて、独りみずからの力で煩悩の苦を離れようと求めたり、あるいはまた眼前の大悲にとらわれて、衆生に与える利益を欲したりする。これらは皆、無上の悟りの障害であるから、すべてこれを内魔と名づけている。」

と夢窓国師は説かれています。

慢心を起こすのが魔であります。

病気になって修行を怠ることも、怠けごころが増長するのも魔であります。

さらに「よく人を導く高徳の学僧(善知識)を信ずることが極端なために、その糞を食べ、その尿を飲むのもいやだと思わないことがある。これもまた魔障だ。

善知識の行ないに過非があるのを見て、仏法を捨て、これを遠く離れるのも、魔障である。ひどく怒るなどの煩悩が強盛に起こることも、魔障である。」

と説かれています。

指導者を過信するあまり、極端なことになってしまうのも魔ですし、過ちばかりをあげつらってしまうようになるのも魔であります。

「六度の行を修めても、仏道の障りとなるわけを説いて、

檀那の布施を行なう人は、他人が欲張りなのを見てこれを憎み、

戒律を保つ人は、戒を破る人を見てこれをそしる。

かつまた、禅定(一心)を修めている人は、とりとめのない人をいやがり、

智恵のある人は、愚かな者を軽蔑する。

もし人間にこのような心が起こるならば、六度の行の功徳はかえつて仏道を障げる因縁となるということだ。」

と説かれています。

これは注意しないといけません。

一所懸命に修行したからといって、たとえば熱心に施しをする人が、他人があまり施さないのを見てこれをケチだとそしったりすると魔なのです。

戒を守るのは尊いのですが、戒を守らない人をそしると魔です。

心を静めようというのは尊いのですが、心が散乱している人を駄目だとそしれば魔となるのです。

これはお互いの周りにもありそうです。

いや自分自身がそうなっているのではないかと内省することが大事です。

では魔を克服するにはどうしたらいいか、夢窓国師は

「心の外に悪魔の障害はない。無心であるということがすなわち悪魔を降す」

と説かれています。

どんな仏菩薩が姿を現そうと、こちらが一切取り合わないのです。

「仏の世界のかたちに心をとらわれれば、それが魔界であり、魔界のすがたを忘れ去ってしまえば、それが仏の世界なのだ。」

と説かれています。

原文は、

仏界の相を愛すれば則ち魔界なり。
魔界の相を忘ずれば則ち仏界なり。

となっています。

仏の世界にとらわれたら魔なのです。

魔を離れたら仏なのです。

そこで夢窓国師は

「真実、仏道修行をする人は、仏の世界をも愛せず、魔界をも怖れない。もしもこのように気をつけて、はっきり会得したいという思いをも発さず、嫌気がさす気持ちをも発さなければ、諸種の障害は自然に消滅するに違いない。」

とお示しになっています。

「はっきり会得したいという思いをも発さず」と説かれているように、あまりに分かりたい分かりたいという思いが執着になると魔となってしまいます。

要は淡々と仏道を修めてゆくことです。

そして清らかな願いを起こしなさいと夢窓国師は説かれています。

「どうか私は今、仏の円満な悟りの世界にとどまって、よき導きの師を求めて、外道小乗のものに出会うことなく、次第に諸種の魔障を断ち切って、束縛を脱れて悟りを開き、清浄な宝殿に登りたいものだと。」

という大きな願いです。

大きな願いをもって小さなことに慢心を起こしたりせずにどこまで淡々と仏道を修めてゆくことが魔を克服する道であります。

 
横田南嶺

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