開山忌余話
無学祖元禅師の名は『広辞苑』にも記載されています。
「鎌倉時代の臨済宗の僧。
字は子元。
宋の明州慶元府(浙江省)の人。
執権北条時宗に招かれ、1279年(弘安2)来日、建長寺に住し、82年円覚寺を開創。
その法流を仏光派という。
諡号は仏光禅師・円満常照国師。(1226~1286)」
と書かれています。
岩波書店の『仏教辞典』にも詳しく記載されています。
「無学祖元
1226(中国宝慶2)~86(日本弘安9)
中国から来日した臨済宗の僧。
字(あざな)は子元、無学は道号、祖元は諱(いみな)。
明州慶元府(浙江省)の出身。
杭州の浄慈寺で出家し、径山の無準師範に参じ、その法を嗣ぐ。
温州(浙江省)能仁寺に住していた1275年(建治1)に、蒙古兵が寺に侵入し、白刃をかざして迫った。
その際、無学は「乾坤孤筇を卓するに地なし、喜び得たり人空法亦空、珍重す大元三尺の剣、電光影裏に春風を斬る」と偈を述べて危機を脱したという。
無学祖元は、北条時宗により招聘されて、1279年(弘安2)に来日。
建長寺第5代長老を経て、北条時宗が蒙古襲来で死んだ人々の追善のために建てた円覚寺の開山となり、宋の純粋禅を日本に定着させようと努めた。
無学祖元の門流は仏光派というが、夢窓疎石・無外如大といった優れた弟子が輩出し、日本臨済宗に大きな足跡を残した。」
と解説されています。
仏光国師は一二二六年、南宋の時代に明州慶元府というところで生まれています。
十二歳のときに杭州にある浄慈寺で剃髪受戒して僧になりました。
僧になろうと思ったのは、十一歳のとき、父親と一緒にあるお寺を訪ねたことがきっかけでした。
そのお寺の僧が、次のような漢詩の一節を吟じたといいます。
竹影、揩を払って塵動ぜず、月、潭底を穿って水に痕無し
竹が風に揺れてその影が階段を払っているけれども、塵は全く動かない。月の光が池の底まで届いているけれども、水には何も痕が残らないという意味です。
お坊さんが吟じるこの詩を聞いて仏光国師は深く感動し、それが出家の志を抱く動機となったといわれています。
その明くる年、十二歳のときに父親が亡くなってしまいます。
これも大きなきっかけであったと察します。
十三歳のとき、仏光国師は径山萬壽寺に上ります。
径山というのは当時の中国の五山第一位の大きなお寺であり、修行の道場です。
径山には当時仏鑑禅師、無準師範が住していました。
この方が仏光国師の一番の師匠となります。
この仏鑑禅師が日本の禅宗に与えた影響は非常に大きなものがあって、京都の東福寺の御開山である聖一国師(円爾弁円)も中国に渡ってこの方について修行をして日本に戻ってきました。
仏光国師は十三歳から十六歳の間は主に仏教の勉強に打ち込んで、十六歳になってから正式に仏鑑禅師について参禅をします。
十六歳の頃、仏光国師は仏鑑禅師から「無」の一字を公案として与えられました。
それからあしかけ六年、この無の一字に取り組んで、悟りを開きました。
二十二歳のある晩、いつものように夕方から坐っていると坐禅堂にかかっている板を木槌で打つ音が聞こえました。
夜が明けるのを知らせるために修行僧が木槌で板を打つのです。
このとき開板の音を聞いて、仏光国師は忽然として悟りました。仏光国師はそのときの心境を偈に表しています。
一槌に打破す精霊窟
突出す那吒の鉄面皮
両耳聾の如く口啞の如し
等閑に触著すれば火星飛ぶ
板を叩く槌の音ですべての迷いが打破された。
本来の自己がそのままそこに姿を現した。
何も聞こえず何も言えないとしても、うっかり触ろうものなら火花が散るぞという意味です。
私はこのことをもとにして今年の開山忌の法語を作りました。
「板声を聴き得て本真を悟り、那吒の鉄面、全身を現ず」
と最初の二句を詠ったのでした。
二十二歳で大悟したのですが、残念なことに、師である仏鑑禅師がその後すぐに亡くなってしまい、引き続き指導を受けることができませんでした。
その後、幾多の禅僧について修行を重ねて、真如寺に住されることになります。
その間には二十九歳から三十六歳まで七年ほど母親を養って白雲庵で過ごされています。
真如寺に住されたのは四十四歳の時でした。
弘安二(一二七九)年六月、時宗公の招請によって仏光国師が来日します。
八月に鎌倉に到着すると、亡くなった大覚禅師の後を継いで建長寺の住持に就任します。
大覚禅師は、弘安元年七月二十四日にお亡くなりになっていたのでした。
大覚禅師が亡くなってその明くる年に仏光国師がお見えになったのです。
弘安四年に二回目の元寇がありました。
そしてその明くる年に円覚寺が開創されたのでした。
円覚寺が開かれてから二年後に、北条時宗公が三十四歳で亡くなります。
そのまた二年後に仏光国師もお亡くなりになります。
弘安九(一二八六)年九月三日のことでした。
仏光国師も六十一歳でお亡くなりになりました。
そんな開山国師のことを思いながら開山忌をお勤めしていました。
六十一歳というのは数え年で今でいう満年齢では六十歳なのです。
私はもう仏光国師のお年を超えています。
開山忌に出頭して舎利殿を行道していると、出頭の和尚様も多くは私よりもお若いことに気がつきました。
前日の宿忌では私よりも年長の方はほとんどいらっしゃいません。
当日の半齋の出頭でも私よりも年長の方は五本の指で数えられるほどです。
もっとも私よりも年長の和尚様方は円覚寺派に大勢いらっしゃいます。
ただ開山忌の法要というのは、舎利殿そして佛殿とおよそ二時間にわたって坐ることなく、立ったままか歩いてお経を読みますのでかなりたいへんなのです。
腰が悪かったり、膝がよくないと難しくなってきます。
元気に法要を務めることができるのは有り難いことなのです。
横田南嶺