開山忌
一月ほど前から、円覚寺の総門の下のところに、開山忌と書いた大きな木の札を掲げています。
駒札と言ったりします。
今年新しくしています。
それまでは先代の管長足立大進老師が揮毫されたものでしたが、木が朽ちてきたので、今年新たに作り直し、私が「開山忌」と書かせてもらっています。
開山忌の法要は、円覚寺でも最も大事な行事であり、もっとも大がかりな法要であります。
開山仏光国師のご命日の法要です。
修行道場の修行僧たちは、この行事にあわせて円覚寺全山の草取りや刈り込みなどをいたします。
出入りの植木屋さんもこの日に合わせて樹木の剪定を行ってくれています。
一日の日には、円覚寺の山内の和尚様方が集まって打ち合わせや稽古をしておきます。
二日の午後三時から法要が始まります。
三日の日は、朝六時から開山様にお粥をお供えする法要をお勤めします。
法要の主たることは、お供えであります。
開山様が生きていらっしゃるように食べ物や飲み物をお供えするのです。
前日の夕方は、本来お坊さんは午後から食事をしなかったのですが、禅宗では薬石と称して軽い食事をいただくようになっています。
開山様にはおうどんをお供えするのです。
そしてご命日の朝には、小豆を入れて炊いたお粥をお供えします。
それからお昼にはご飯とおつゆにおかずをお供えするのです。
お供えしては礼拝をしてお経を読むというのが法要で行っていることです。
朝は、まず佛殿にお祀りしている開山様のお像にお粥をお供えして礼拝して楞厳呪というお経を唱えます。
楞厳呪は、歩きながらお唱えします。
これを行道と言います。
それから舎利殿に移動して舎利殿の中でまた楞厳呪を唱えます。
その後に開山堂の裏にある開山様のお墓にお参りします。
管長としてお墓にお参りするのはこの時です。
小高い崖の中腹にあるのですが、そこにお参りします。
このお墓はもともと円覚寺にはありませんでした。
開山様は建長寺の住持でもあり、建長寺でお亡くなりになっていますので、お墓はもともと建長寺にありました。
それが夢窓国師の時に、円覚寺にも開山様のお墓を作ろうということで、作られたと伝えられています。
数年前の石段が崩落してしまったことがありましたが、いまはきれいに修復されています。
そして午前十時から開山忌の法要です。
この時には、建長寺からも一山のお坊様方が参列されます。
十時から舎利殿で楞厳呪を読みます。
これが真の楞厳呪といって、円覚寺に伝わる独特の読み方があります。
丁寧にお経をあげるのです。
そこには円覚寺派の和尚様方も参列されます。
管長の役目は導師でありますが、その日は四人の先導の和尚様と、総代さん達に導かれて、大きな赤い傘をかかげてもらって歩きます。
私の後ろには五人の侍者が並びます。
五人の侍者は五侍者とも言います。
五侍者については『禅学大辞典』には次のように解説されています。
一、焼香侍者。山門の行礼において住持の焼香を補佐する役。
二、書状侍者。住持の往復の書簡を司る役。
三、請客侍者。住持の賓客の応接をする役。
四、衣鉢侍者。住持の衣鉢資具を司る役。
五、湯薬侍者。住持の飲食湯薬を司る役。
現今の臨済宗では、侍香・侍状・侍客・侍衣・侍薬と呼ぶ」というのです。
管長が控えるのは正続院の一撃亭です。
そこから行列を組んで舎利殿に向かいます。
まずは開山堂にあがります。
開山堂には開山様のお木像がお祀りされています。
佛殿にもお祀りされていますが、開山堂のお木像はお亡くなりになった時に作られた国の重要文化財に指定されているものです。
管長として開山堂に上がるのは、このときです。
開山堂には開山忌の間ずっと開山様のおそばに侍している役目の和尚様がお座りになっています。
侍真というお役目の和尚様です。
開山様にはこの時だけの特別な飾り付けがなされています。
その前で三拝をします。
そして舎利殿に戻って楞厳呪をお唱えします。
その後は、行列を組んで方丈まで移動します。
方丈でしばし支度が整うまで待機します。
支度が整うと佛殿まで行列を組んで進みます。
普段は佛殿の裏から入っていますがこのときは佛殿の正面から入堂します。
佛殿の中で、開山様にお香を焚いて三拝し、更にご飯とお湯をお供えして参拝し、そしてお茶をお供えして三拝します。
その後お経をあげて終わります。
円覚寺は北条時宗公が建てたお寺です。
南宋から無学祖元禅師をお迎えして開山としました。
南宋は一二七九年に滅んでいます。
開山様が来日されたのも一二七九年であります。
南宋が滅んだ年に日本にお見えになっています。
弘安四年一二八一年に元寇が終わって明くる年に円覚寺は開創されています。
弘安四年に時宗公が開山様にお目にかかっているときの記述が『元亨釈書』に残されています。
「弘安四年の春正月、平帥来たり謁す。
元、筆を采りて書して帥に呈して曰く、『莫煩悩』。
帥曰く『莫煩悩とは何事ぞ』
元曰く、『春夏の間、博多騒擾せん。而れども、一風纔に起こって万艦掃蕩せん。願わくは公、慮りを為さざれ』。
果たして海虜百万鎮西に寇す。
風浪俄に来たって一時に破没す。」
と書かれています。
「平帥」とは北条時宗公のことです。
北条は源氏平氏でいうと平氏ですから、平の元帥で「平帥」です。
時宗公が、当時建長寺に住しておられた仏光国師を訪ねてきて面会をしたという話です。
そこで筆で文字を書いて時宗公に示しました。
一種の筆談です。
そのときに書いたのが「莫煩悩」という言葉です。
これは「煩悩することなかれ」と読まれます。
煩悩は仏教語で心を煩わし身を悩ます心のはたらきです。
仏教語して定着していますが、漢語でもあります。
漢語としては、煩悶する、心配する、悩む、気をもむという意味です。
ここでは仏教語しての「煩悩」という意味よりも、漢語して心配するなという意味だと小川先生に教わったことがあります。
心配するなとはどういうことですかと問う時宗公に、
仏光国師は「春から夏の間に博多で大きな戦があるであろう。
しかし、さっと風が吹いて万艦はすべていなくなってしまう。
だから、時宗公は何も心配することはありません」という意味です。
果たしてその年の五月に元の軍は十四万の大軍で九州に攻め込んできましたが、台風が来て壊滅状態になりました。
文永の役で一度戦っていた日本側も、その後博多の沿岸に防塁を築いて万全の態勢で戦いに臨んだことも幸いしたのでしょう。
そういうわけで、仏光国師の言葉どおりに元寇は終わったのでした。
その明くる年に円覚寺は開かれました。
円覚寺が開創されて二年後には時宗公が亡くなっています。
そのまた二年後に開山仏光国師もお亡くなりになっています。
開山様を偲んで一日法要をお勤めします。
横田南嶺