達磨大師のご命日
円覚寺では午前十時より佛殿において法要をお勤めします。
どなたでも佛殿に入って参列できます。
一時間ほどかかる儀式ですが、イスも用意しています。
達磨大師については禅宗の初祖とされていますが、分からないことが多いのです。
『禅学大辞典』によれば、達磨の文字にしても伝統の祖師としては達磨(磨くという字の磨)と書き、歴史上の事物としては達摩(摩訶般若の摩)と書くと解説されています。
『禅学大辞典』にある達摩大師についての記述を参照してみましょう、
「その生国は波斯国あるいは南天竺国で、後世に成立した資料では、国王の第三王子であるとされる。」
と書かれています。
『景徳伝灯録』には南天竺国香至王の第三王子として書かれていますが、はっきりしたことではありません。
もともとは菩提多羅と名付けたと書かれています。
更に『禅学大辞典』には、
「般若多羅の法を嗣ぎ(祖統説の差によって異なる)、中国に渡来した。
〔續高僧傳〕は「宋境南越」とし、〔寶林傳〕は梁、普通八年(五二七)九月二一日に広州に到着したとしている。
期日を明確に記すのは〔寶林傳〕が最初であるが、後代には多くの異説が生じた。」
と書かれています。
『景徳伝灯録』には普通元年と書かれています。
更に「梁の武帝が達磨伝に登場するのは、〔南宗定是非論〕〔問答雜徵義〕が最初で、それ以前の資料にはなく、「無功德」の問答も、〔祖堂集〕に至ってはじめて記される。
その後達磨は嵩山少林寺に入り、面壁すること九年であり、これを測り知る人はなかったという。
達磨の法を嗣いだ慧可が雪中にあって自ら断臂したという故事は〔楞伽師資記〕に初めて記され、〔續高僧傳〕では賊に遭って臂を断たれたとされる。
達磨の門人としては道育、慧可、尼総持、道副の四人が知られている。
〔二種入〕の筆受者の曇林については不明な点が多いが、般若流支の訳経を筆受した曇林と同一ともされている。
また達磨は慧可に〔四卷楞伽〕と袈裟と伝法偈を授けたとされるが、伝法偈が記されるのは〔寶林傳〕が最初である。」
と書かれています。
伝法偈というのは、
「吾本、茲の土に来たり、法を伝えて迷情を救う。
一華、五葉を開き、結果自然に成る」
というものです。
私はこの中国の地に来て、仏法を伝えて迷っている人たちを救った。
一つの華が五つの葉を開いて、その実は自然と結ばれるという意味です。
一華、五葉を開くについて、『禅学大辞典』には、達磨大師から五代の祖師を経て禅宗の教えが華ひらくという説と、禅宗が後に五家として別れてその華を開かせるという意味とが書かれています。
たしかに達磨大師から五代にわたって継承されて、その六代目の六祖慧能大師によって禅宗は大いに華ひらいたのです。
また五家というのは後に臨済、曹洞、雲門、潙仰、法眼という五つの宗に別れて発展したことを指しているとも言われます。
更に『禅学大辞典』には、
「また〔洛陽伽藍記〕では、達磨が一五〇歳の頃、洛陽の永寧寺の伽藍の華美なるを讃嘆して終日「南無」と唱えて合掌していた旨を記すが、歷史上の達磨を記したものとして注目される。」
と書かれています。
また「達磨が毒殺されたという記事は〔傳法寶紀〕が最初。
〔歷代法寶記〕では、菩提流支と光統律師の二名が前後六度にわたって毒を盛ったという。
遷化の年としては〔寶林傳〕は後魏孝明帝丙辰(五三六)一二月五日とし、引用される法琳による慧可の碑銘によると大同二年(五三六)一二月五日とする。
また〔祖堂集〕は太和一九年(四九五)とし、〔景德傳燈錄〕も同一九年一〇月五日としている。
世寿一五〇歳であったという。」
と書かれています。
五百二十年頃に中国に来たという説もあれば、四九五年に亡くなったという説もあって、実際は定かではありません。
「熊耳山に埋葬したが東魏使宋雲は葱嶺において隻履を携え西ヘ向かう達磨に遇い、帰国して棺をあばいたところ隻履のみ残されていたともいう。」
とも書かれています。
そういうことを鑑みると、達磨大師は、およそ五世紀から六世紀にかけての方で、インドから中国に見えて法を伝えられたといえます。
そこで慧可大師に法を伝えて、その教えが後に禅宗と呼ばれるようになったと言えます。
夢窓国師の『夢中問答集』の中に、達磨大師の二入四行について説かれているところがあります。
講談社学術文庫の『夢中問答集』にある川瀬一馬先生の現代語訳を参照します。
「達磨大師は、仏法を悟入しようとする人について、理入、行入の二種を考えておられる。
理入というのは修行をかりないで、直に本性をめざしてゆき当たろうとする人である。
行入というのは、本性を悟るべき説法を聞いて、それを信じてわかりはしたが、まだ相応の分際がない人のために、一定の手立てがない自由な手立てをもって相応させようとする手段である。
行入について、四行ということを説明している。
一には報冤行、二には随縁行、三には無所求行、四には称法行である。」
と説かれています。
理入というのは、「経典によって仏法の大意を知り、生きとし生けるものは、凡人も聖人もすべて平等な真実の本質を持っているが、ただ外来的な妄念にさえぎられて、その本質を実現できぬだけのことだと確信するのであり、もしも、妄念を払って本来の真実にかえり、身心を統一して壁のように静かな状態をたもち、自分も他人も凡人も聖人も、ひとしく一なるところに、しっかりと安住して動かず、決して言葉による教えによらないならば、それこそ暗黙のうちに真理とぴったり一つになり、分別を加えるまでもなく、静かに落ち着いて作為がなくなる」というのです。
これは筑摩書房の『禅の語録1達摩の語録』にある現代語訳です。
平たくいうと、みんな仏の本質を持っているけれども妄念によって遮られているだけだと気がつくということです。
それから行入について夢窓国師は、
「あだ世間に多い貴賤男女の中で、自分が気に入らず、自分に冤をする人がある。
それから畜生、鬼類の中にも己に毒害をするものがある。
人間の八苦の中に怨憎会苦(憎む者と会合する苦)というのはこれだ。
これは皆、前世に彼らを敵視した報いである。
あるいはまた、貧苦病苦に責められるのも、己が欲張ったり戒めを破ったりした報いだと思つて、怒ることも悲しむこともない。
このような気持ちに安らかに落ち着くのを、報冤行と名づける。
もしまた、しあわせがあって、官位も進み、財宝も多く、名誉も人にすぐれ、芸能も抜群であつたとしても、それらは皆、前世に修めた一切の善根に報いた果報、威勢である。
久しく保っていられるわけがないと思って、これに誇り、これに執着する心がないのを、随縁行と名づけている。」
と説かれています。
更に「この二つの行の道理は、たいして甚深の説法ではないけれども、教外の修行の宗旨を信ずる人の中にも、前世からのよい報いの薄い人は、逆順の境界を侵し合う縁に出会うと、心を乱して仏法を忘れてしまう。
それでもまだ仏法を心のどこかの端には気にかけているふうではあるが、逆順の縁が連続して隙間もないので、工夫のよくよく熟する余地がない。
この二行の道理は、無智の人でもきっとわかるであろう。
先ずこのような道理をわきまえて、逆順の境界の縁に対う時に、心を乱すことがなければ、自然に工夫も純一になるであろう。
この故に、達磨大師が先ずこの二行を立てられたのである。」
と説かれています。
達磨大師の遺徳を偲ぶ今日であります。
横田南嶺