何事もなき幸せ
早朝に横須賀線内で人身事故があって、横須賀線も東海道線も止まっているというのです。
さて問題はいつから運転再開されるかということです。
八時半頃に事務所に行ったのですが、まだ運転は再開されていないようでした。
車でお越しになっている方や、近隣の方は、すでに方丈にお見えになっています。
いつもの五分の一くらいの人数でしょうか。
このまま運転が再開されないというのでしたら、致し方なく定時の九時に始めることになります。
事務所でも予定通りに始めようと話し合っていました。
そうしているうちにも何軒も問い合わせの電話が入ります。
事務所は騒然としています。
そうこうしていると九時過ぎには運転再開されそうだという情報が入りました。
これには迷いました。
定時に始めれば、多くの方は話の途中に入ってくることになります。
かといってあまり時間を遅らせると、すでにお待ちになっている方に悪い気がします。
それに私自身、その日は午前九時から十時まで日曜説教を務めて、そのまま次には十一時の法話を別のお寺で勤めることをなっていたのです。
あまり遅らせると次の法話に重なってきます。
九時過ぎに運転再開として、円覚寺に見えるのは九時半過ぎと想定しました。
そこで会の始まりを九時十五分にしました。
だいたい十五分から二十分くらいはお経を読んでいますので、その間に入ってもらえればいいと判断をしたのでした。
そこですでに会場にお集まりになっている皆様にはご説明をして十五分お待ちいただきました。
その間は、教学部長の蓮沼直應先生が短いお話をなさってくれていました。
そうして九時十五分からお経を始めました。
私としてもこれ以上遅らせると次の法話に間に合わぬと判断したのでした。
案の定お経の終わり頃に、ぞろぞろと方丈に入ってみえました。
そうして十時十五分まで法話を務めました。
法話のあとは、三軒の来客に対応することになっていましたが、すぐに次の会場に移動しないといけませんので、三組同時にお目にかかることにしました。
そうしてどうにか次のお寺に移動して十一時の法話には間に合ったのでした。
朝からバタバタしたのでした。
玉城康四郎先生の『華厳入門』(春秋社)に次の言葉があります。
「縁起」についての説明であります。
「たとえば私ども一人一人が家庭で、あるいは仕事場で、仕事を終えて、私どもそれぞれがここにやってきて、つまり働いて、今ここにこういう会合がともに生じている。
これはいくら私一人がしゃべっても生じない。
皆さんがいくら集まってきても生じない。
それに私と皆さんだけではなくて、電灯も働いている。
あかりをちゃんと照らしている。
それからこの建物自体が働いて、われわれに活用させてくれていますね。
非常におもしろいことには、こういうことも仏教は考えます。
今もし大地震が起こったら、この会はたちどころに終息してしまう。
大地震が起こらないということが実は大きな要素となってこの会合を成立させている。
そこまで考えてくると、ありとあらゆるものがこの会に参加して力を貸してくれていることになります。
それが縁起です。
だから縁起がいいとか悪いとかいうことはないのです。
いいも惡いも、喜びも悲しみも、いかなるサムットパーダ(共生)もことごとく縁起です。
縁起でないものは一つもない。
それを華厳では無限に重なり合って果てしがないから重重無尽の法界縁起、言いかえれば事事無礙であると言っているのです。」
というのです。
「サムットパーダ」については、次のように書かれています。
「縁起というのは、もとはプラティートヤ・サムットパーダという言葉です。
プラティというのは「それぞれに」という意味もあるし、「~に対して」という意味もあります。
イティヤというのはイ、「行く」という動詞の絶対詞です。
「行く」というのはすペての行動を代表しているから、「働く」、絶対詞になって、「働いて」という意味です。
サムというのは「共に」、ウトパーダは「生じていること」です。
プラティを仮に「それぞれに」の意味にとってみると、「それぞれが働いて共に生じていること」、これが縁起ということのもともとの意味になります。」
と解説されています。
私たちは縁起というと何かいただいたり、あることに目をつけます。
いつも日曜説教でも、生まれたことの不思議、今日まで生きてこられたことの不思議、そして今日ここでお互いにめぐり合えた不思議に手を合わせましょうと申し上げています。
生まれたという不思議はまさに命をいただいた不思議です。
今日まで生きてこられた不思議というと、多くの方々のお世話になってきたという不思議です。
ただ何事もないことに感謝するというのは難しいのです。
何事もないのは、当たり前と思ってしまっているのです。
それで時にこのような事故があったりすると、何事もなく電車が走るということの有り難さに気がつくのです。
思えば、そのようなことはたくさんあります。
玉城康四郎先生が仰っているように大地震がないこともご縁なのです。
この頃は雨風の災害も多くなっています。
災害がないのもご縁なのです。
ないことによって支えられているのです。
また広い大方丈に何百人もの方々がお入りになって法話ができます。
これは方丈には何もないからです。
いくら広い大きな建物があっても、そのなかに物が一杯に入っていては法話はできません。
人は入れません。
何もないから入れるのです。
何もないことが、あるものを生かしているのです。
なにもないことに支えられて、あるものがあり得ているのです。
空ということが分からないと聞かれたことがありますが、空に支えられているのです。
空とは、何々が欠けていることを意味します。
お茶碗が空であるというのは、中になにも入っていないのです。
だからお茶が入るのです。
空だからお茶が飲めるのです。
事故が空だから無事に電車に乗れるのです。
エレベータに乗ってもその狭い空間に殺人者が空だから、安心して乗っていられるのです。
実に空は目にみえませんが、到るところで私たちを支え生かしてくれています。
肺の中が空だからいつも新しい空気が入るのです。
お腹が空だから、食べ物が美味しいのです。
何事もない、空であることが有り難く幸せなのです。
何事もないことの有り難さに気がつくのには、このような事故にあってなのですが、そんな事故に遭う前に、静かに坐って自己を空にするのです。
そうしますとすべてあることが有り難くなるのです。
何事もない幸せを感じられるようになりたいものです。
横田南嶺